冷たい戦いを超えて(16)またも政争の犠牲になり残念

オリンピズム
米国のジョーン・ベノイト(共同)

 「澄み切った瞳で目の前の地面をじっと見つめていた」。ともにレースに挑んだある選手は彼女のスタート前の印象をこう思い起こした。

 気温16度と絶好のマラソン日和。真っ白な野球帽をかぶり、スタートから快調に飛ばす。4キロ地点まで先頭集団を引っ張ると、後方を振り返り、ペースが遅いとでも言いたげにスパートをかける。その後は振り返ることもなくゴールを駆け抜けた。

 モスクワ五輪から4年、所は変わって米西海岸のロサンゼルス。五輪で初めて採用された女子マラソンで米国のジョーン・ベノイトが“初代女王”の座に輝く。しかも険しい道を乗り越えて…。

 五輪の2年前に両足のアキレス腱(けん)を手術。「奇跡は起こらないよ」という医師の言葉を練習で覆し、五輪前年のボストンマラソンで世界最高を記録すると、五輪予選前に膝を痛めてまた手術。それでも「一度死んでいる」と屈することなく五輪に飛び込んだ。

 《ドン底からはいあがった女王に神様はなんと素晴らしいプレゼントを用意しておいてくれたのだろうか。胸の金メダルがカリフォルニアの太陽にキラリと光った》

 当時の産経新聞は栄光の一瞬を鮮やかに伝えている。

 苦境を乗り越えられないでいたのは五輪の方だった。米国や日本は8年ぶりの出場に期待したが、理想はまたも遠のく。直前にソ連が不参加を宣言し、東側諸国が追従したからだ。多少は自由に意見が言える風潮になり、ソ連オリンピック委員会会長のビタリー・スミルノフは「スポーツの成功を政治に生かすなら、選手を派遣すべきだ」と訴えたが、それも通じなかった。

 ソ連の行動はモスクワ五輪をボイコットした米国への報復である一方、米国との緊張感を高めてロナルド・レーガン米大統領の再選阻止を図る“政治的な攻撃”とも指摘された。産経新聞は当時、情勢を高所から分析している。

 《ソ連軍アフガニスタン侵攻以来続いている米ソ対決激化の大きな鎖の一つで、米ソ関係を中心とする東西関係の停滞が八〇年代後半にもつれ込むことの予兆とみることができよう。アフガン侵攻以来、ソ連の対西側外交は全体として誤算が重なり、うまく進まなくなっている。ソ連側に不利な状況となるたびに、ソ連指導部は硬さを増し、柔軟姿勢を欠くという悪循環が続いている》

 ロス五輪は史上最大規模となり、ボイコットも悪循環を象徴した。それは一方で強豪選手を締め出し、メダルの価値をめぐるスポーツ界の論議に影響した。ベノイトの強さを疑う者はいないが、もっとライバルがいたらレース展開はどうなっていただろうか。

 日本選手団団長で日本オリンピック委員会(JOC)委員長、柴田勝治はソ連のボイコットにこう語った。「米国に対するソ連の政治上、軍事上の大きな不信感がからんでいる。スポーツがまたしても政争の犠牲になるわけで残念でしかたない」。五輪への政治の影響は参加、不参加にかかわらず重い。=敬称略(蔭山実)