交番のおまわりさんに「無償の功名」をみた 論説副委員長・別府育郎

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 社会部に手紙が届いた。郷里の5歳のめいが重い心臓病にかかっているが、手術を受ける費用がない。このまま見殺しにするしかないのか、という切々とした訴えだった。

 当時遊軍記者の細谷洋一はデスクから手紙の主に会うよう命じられるが、手紙にある少女の姓名と「川崎市登戸」の消印しか手掛かりがない。細谷は登戸周辺の交番を片端からまわり、巡回連絡簿から投書の主にたどり着く。おじの話から鹿児島に飛んで少女に会い、昭和41年6月7日、「貧しいがゆえに死なねばならぬか」と題する細谷のルポが社会面に掲載された。

 記事は反響を呼び手術に必要な額の何倍もの寄付が寄せられた。これが「明美ちゃん基金」の基となった。個人情報保護法もない古き良き時代の交番があってこその話と思っていた。

 恥ずかしながら年末、さいふをなくした。免許証やカード類の一切が入っていた。悄然(しょうぜん)として心当たりに連絡するが、見つからない。立ち寄り先近くの交番にも電話を入れてみたが、「届けはありませんね」。

 1時間後、交番から「別府さんの携帯ですか。ありました」と連絡があった。聞けば近隣署に電話を入れて該当するさいふを捜し、二手間三手間をかけてこちらの連絡先を割り出してくれたのだという。

 礼を言い、この話、書きたいと頼んだが「最初の電話を切るのが早かった反省があるだけです」と頑(かたく)なだった。だから場所も詳しい経緯も書かない。ただ交番の人情、使命感、心意気は十分、今に生きていた。

 弊紙のOBでもある司馬遼太郎は、新聞記者の理想像をこう書いている。《自分の仕事に異常な情熱をかけ、しかもその功名は決してむくいられる所はない。紙面に出たばあいはすべて無名であり、特ダネをとったところで、物質的になんのむくいもない。無償の功名主義こそ新聞記者という職業人の理想だし同時に現実でもある》

 自分も新聞記者なのだが理想にははるか遠く、ただ交番のおまわりさんに「無償の功名」をみて感激するばかりだった。