冷たい戦いを超えて(14)参加できなくてもかまわない

オリンピズム
キラニンIOC会長と握手する宋中氏=1979年10月、名古屋市内のホテル

 「参加したいが、複雑な問題がある。参加できなくなってもかまわない」。1980年1月、モスクワ五輪のボイコットを求める声が高まり、中国の体育協会にあたる中華全国体育総会の秘書長はモスクワ五輪の参加について、こんな談話を発表した。国際オリンピック委員会(IOC)への復帰がようやく認められた直後のことだった。

 中国は戦前、中華民国として五輪に参加したが、中華人民共和国としては初参加となった52年のヘルシンキ五輪を最後に、84年のロサンゼルス五輪で復帰するまで、7大会で欠場した。台湾との「二つの中国」をめぐる問題でIOCの態度に不信感を抱き、IOCを脱退したためだ。

 それが79年になって動く。IOCの投票で中国の復帰が決まり、モスクワ五輪の参加が可能になった。中国当局は記者会見を開き、IOCに感謝すると、その勢いで、台湾に「IOCの決定を受け入れ、ともに五輪に参加することで祖国統一の大義を促進しよう」と呼びかける。いかにも中国らしい言動であった。

 台北オリンピック委員会は中国復帰のIOC決定に強く抗議し、今度は台湾がIOCを脱退する。モスクワ五輪への選手派遣も見送った。

 「二つの中国」という問題はスポーツ界でもいまなお重いが、冷戦時代には、共産主義勢力の大国として対峙(たいじ)したソ連の対中観にも影響した。その一端が、論文『五輪、ソ連スポーツ当局と冷戦』の中で指摘されている。

 《中国はIOCに、台湾は中国の一部であり、国とは認識しないよう、抗議し、台湾をIOCから排除することが加盟の条件とした。ソ連はこうした中国が必要以上に事態を混乱させていると考えた。中国がオリンピックムーブメントとの関係を断つと、ソ連はIOCに再考をうながしたが、逆に中国が反発した。ソ連は中国とこれ以上、かかわると、国際スポーツ界で築き上げてきた権威が損なわれると判断し、主要な競技では中国との関係を維持しないことに決めた》

 中国にとって五輪は中台問題をめぐる政治的な戦いの場も同然であった。中国のスポーツへの政治介入を阻止することは難しく、ソ連が中国に引導を渡した。

 そうみると、共産主義圏で初となるモスクワ五輪は、行き詰まった中ソ関係の打開につながる場でもあったかもしれないが、中国の態度は相変わらずかたくなだった。五輪参加をめぐる中台問題が難航するうちに、ソ連軍のアフガニスタン侵攻の波紋が中国に広がる。

 中国外務省は「国連決議を無視してアフガンを占領し続ける状況では五輪開催は不適当だ。軍事介入が五輪の目的にかなっているかどうか、重大な関心を払わざるを得ない。問題はすでに政治的になった」と声明で訴え、ボイコットへと突き進んだ。

 ようやくつかんだ五輪復帰を手放し、ソ連に引導を返した中国。「スポーツよりも政治」。秘書長の言葉にもそれがにじんでいた。=敬称略(蔭山実)