相次ぐスポーツ選手の暴力 潔い敗者であってほしい 論説委員・佐野慎輔

日曜に書く
 ジョージ・スミス容疑者(ゲッティ=共同)

 大相撲をスポーツの範疇(はんちゅう)に置くことには、いささか違和感を覚える。だからといって、暴力や身勝手な振る舞いが許されていいはずもない。

 オリンピックの競泳銀メダリストによる暴力行為、さらにはラグビーのトップリーグに所属する元オーストラリア代表選手による強盗致傷容疑と年明け早々、嫌な話が続く。強盗致傷は論外だが、根底に強い者のおごりがありはしまいか。

スポーツは気晴らし

 「無理偏に拳骨(げんこつ)と書いて兄弟子と読ませる」。そんな社会はかつての傷害致死事件で終わりにしたはずではなかったか。体罰や暴力行為は、ルールの下に力と力をぶつけあうスポーツの世界にあってはならない。

 「スポーツの価値が問われている」。スポーツ界で不祥事が起きると必ず、この常套(じょうとう)句が登場する。カヌー競技の選手がライバル選手の飲料に禁止薬物を混入させた。ぬれぎぬを着せて仲間を陥れ、2020年東京オリンピック出場へ自分を優位に立たせようともくろむ。卑劣としか言いようはない。

 彼は日本トップクラスの選手ではあっても、トップ選手ではなかった。焦りが成績上位の、しかし、自分を慕う後輩の心の緩みにつけ込ませたのだろう。いっそう“罪”は重い。

 スポーツの語源は気晴らしであり、気分転換だとされる。面白さ、楽しさを基本に置く。そこに体と心を鍛える、競う、互いをわかりあう、チームスポーツでは協力しあうという要素がすり込まれて成り立つ。

 競うことは優勝劣敗を伴う。勝ち負けを前提としないスポーツなどあり得ない。だからこそルールやマナーを守り、卑怯(ひきょう)な振る舞いや反則は許されない。それがフェアプレーである。

まかり通る都市伝説

 フェアプレーというと、しばしば引用される逸話がある。

 1984年ロサンゼルス・オリンピック柔道無差別級決勝の山下泰裕選手とエジプトのモハメド・ラシュワン選手の戦いである。山下選手は2回戦で右足を痛め、足を引きずる状態だった。ラシュワン選手はその痛めている右足を攻めることなく戦い、それによって国際フェアプレー賞を受けた。

 これは嘘である。嘘というと言葉がきついか。都市伝説と言い換えておこう。

 ラシュワン選手は開始早々、右足を攻めた。空振りして、仕方なく左足を攻めたところを返されて、横四方に固められたのが真実である。山下選手の強さが際立った試合であった。

 残念ながら、そうした真実よりも“美談”が広く流布し、伝説となって今に続く。先日もあるテレビ番組で、スポーツ通で知られる北野武さんがラシュワン選手を取り上げ、痛めた足を攻めないフェアを語っていた。

 「たけしさんでさえ、そう思い込んでいるのか」。テレビの前で思わず愕然(がくぜん)とした。

 いや、もっとあきれたのは東京都教育委員会である。2020年東京大会に向けて小学校高学年から高校生までを対象に副読本を製作した。そこにフェアプレーの例としてこの話が掲載された。学校を通して都市伝説が広まっていく。

 なぜ映像が残っており、山下さんもインタビューで答えている現実に注意がいかなかったのだろう。検証不足のそしりは免れ得ない。

フェアプレーの神髄

 では、この話に救いはないのかというと、そうではない。

 ラシュワン陣営は試合前、できるだけ時間をかけて山下選手を疲れさせ、我慢できなくなったところを見透かして技をかける作戦を指示した。しかし、彼はその戦法を採らず、真っ向から難敵に挑み、敗れた。

 大事なことはその後である。足を引きずり、歩くことも大儀そうな山下選手にラシュワン選手は肩を貸し、表彰台では手を差し伸べて大きな体を支えた。すがすがしい光景であった。

 「Be a hard fighter,and a good loser」

 フェアプレーの神髄を表す言葉である。「果敢なる闘士であればあるほど、その潔き敗者であれ」。あのときのラシュワン選手はそれを体現してみせた。だから彼に国際フェアプレー賞が授与されたのである。そこをきちんと教えてもらいたい。

 潔い敗者たることは難しい。かつて本命視されながら決勝で敗れ、表彰台で憮然(ぶぜん)とし続けた柔道選手がいた。惨めさの上塗りだった。「勝っておごらず、負けて悔やまず」。スポーツをする上で忘れてはならない。

論説委員・佐野慎輔(さの しんすけ)