【オリンピズム】冷たい戦いを超えて(13)政治状況がきわめて重大だった - 産経ニュース

【オリンピズム】冷たい戦いを超えて(13)政治状況がきわめて重大だった

タリンからピリタ(対岸左端)へ、モスクワ五輪のセーリング競技が行われたバルト海を望む=2006年12月(蔭山実撮影)
 バルト海に面する小国エストニア。その首都タリンの北東にある湾岸沿いの街、ピリタはモスクワ五輪で花開くはずだった。セーリングの競技会場に西側主要国から人気のヨットマンらが訪れ、ソ連の占領という暗黒の歴史で初めて世界から注目されるものと思われていたからだ。
 だが、その夢はもろくも崩れた。夏ならバルト海も凍結せず、セーリングには格好だが、1976年のモントリオール五輪でメダルを争った英国や米国、西ドイツ、カナダのチームがいない。ボイコットで競技は見劣りし、世界の目はほかにそれてしまった。
 ピリタは風光明媚(めいび)な歴史の街として知られる。街の顔ともいえる大きな修道院がかつてソ連軍に破壊された苦い記憶と似て、モスクワ五輪では最もボイコットの影響を受けた街といわれる。会場施設は「オリンピック」を冠したスパやカジノとなって当時の期待を面影として残すのみだ。
 時は移り、2012年の英国。ピリタでの競技に出場するはずだった当時の代表3人がボイコットから32年の空白を埋めるかのように、競技団体「英王立ヨット協会」に謝罪と償いを求めた。選手は派遣しないと決定したからだ。
 モスクワ五輪では英国から多くの競技で選手が参加したが、ヨットと射撃、馬術、ホッケーの4競技の団体は英政府のボイコット決定を支持した。前年のピリタでのプレ五輪で銀メダルを獲得し、出場は当然と思っていた選手でも一切説明なく「派遣はない」といわれた。長い時間をかけて培った成果が一瞬にして無に帰してしまった。
 モスクワ五輪で金メダルを獲得したセバスチャン・コーは後に「五輪への貢献」で政府から表彰されている。犠牲を強いられたヨットの代表らは納得するはずがない。協会は「当時は政治状況がきわめて重大だった」と抗弁するだけで、ボイコットの真相は最後まで語ろうとしなかった。
 ただ、英紙デーリー・テレグラフはこう指摘している。
 《当時蔓延(まんえん)していた危機感から、政府のボイコット要請に応じなければ、財政的に苦境に陥る恐れがあったことが理由の一つだった》
 スポーツへの政治の不介入をいくら主張しようとも競技団体は政府の後ろ盾がないと運営できない。ソ連なら問題はなくとも、西欧ではまず不可能だ。政府の意向に逆らう難しさは英国でも変わらず、後に大きなしこりを残すことになった。モスクワ五輪が世界に受け入れられるようであったなら、英国の3人はメダルを取っただろうか。
 エストニアの悲劇はそれと背中合わせだった。ともにソ連に併合されたラトビアとリトアニアの「バルト三国」は北欧に位置づけられ、入国も容易になった。かつて三国を訪れたとき、ソ連の占領で生き別れた家族を捜す老人に会ったことがある。ボイコットという事態がなければ、その暗い歴史に一筋でも光は差し込んだだろうか。スポーツが逆に政治を動かす可能性を考えさせられる。=敬称略(蔭山実)