冷たい戦いを超えて(12)利用された“政治不介入”

オリンピズム

 「オリンピックの相互理解こそ、戦争への緊張を解きほぐすものだ」。モスクワ五輪のボイコットが論議になり始めた1980年1月、米国務長官、サイラス・バンスの脳裏を、44年前の米オリンピック委員会の見解がよぎった。

 36年のベルリン五輪。モスクワ五輪を取り巻く状況がそれと似ていると感じたバンスは同じ過ちは犯せないと考えていた。ベルリン五輪は委員会での投票で小差で参加が決まる。バンスは、参加決定の重さは評価しつつ、参加は誤りだったと指摘した。

 モスクワ五輪でなぜ、ベルリン五輪を思い起こすことになったのか。当時の産経新聞は「利用された“政治不介入”」の見だしで、独誌シュピーゲルの特集記事の翻訳を掲載し、その疑問に答えている。記事の前文にこうある。

 《「貴賓席に座るアフガニスタンへの軍事介入者ににこやかなあいさつなど送れない」-こう主張する不参加支持者たちの胸によみがえるのは、一九三六年八月、ヒトラー政権下のナチ・ドイツで開かれたあのベルリン・オリンピックをボイコットできなかった苦い思い出である》

 そして、特集記事で明らかにされているのは「現在のボイコット運動と二重写しになるような興味ある事実の数々である」と指摘している。

 「スポーツに政治は介入してはならない」。ヒトラーの策略はこの理念を掲げさせて各国を参加させ、野望を実現することにあった。シュピーゲルはこう書いている。

 《ベルリン・オリンピックを外交政策的に利用する-これがヒトラーのオリンピック開催に固執した理由である。誕生して間もないナチ政権は、外交的に孤立していた。(略)ヒトラーは…こう語ったことがある。「ドイツはいま、外交的に極めて困難な状況に直面している。一大文化的事業を行ってイメージを一新させなければならない」》

 国際オリンピック委員会(IOC)会長のバイエ・ラツールは政治の不介入を標榜(ひょうぼう)していた。ユダヤ人選手への迫害には神経をとがらせ、ヒトラーに「スタジアムにオリンピック旗が翻れば、そこにいる人たちはみなIOCのお客です」と訴えたが、しょせん抗弁にすぎなかった。

 ベルリン五輪反対派はスペインのバルセロナで「人民オリンピアード」を開こうとして内戦で挫折する。ドイツ国内では着々と五輪の準備が進み、ナチ親衛隊は「期間中は政治的反対者を痛めつけてはならない」「外国人とみれば、とにかく愛想よく振る舞うこと」と国民に指示した。

 事態の展開は確かにモスクワ五輪と似ている。ヒトラーは金メダル33個を“獲得”して五輪を成功させたが、その戦略の根源は“宣伝”にあった。五輪後はIOCも用なしと突き放し、新たな侵略へと突き進んだ。この二の舞いだけは許さないというのが戦後の大いなる反省だった。

 モスクワ五輪のボイコットはいまも論議になるが、不参加決定の重さもまた評価すべきことであった。=敬称略(蔭山実)