正木利和 「ボクシングの虫」のうずき

スポーツ茶論

 《ボクシングは奇妙なスポーツだ。》

 歌人であり劇作家でもあった寺山修司(1935~83年)の著書「ポケットに名言を」をめくると、こんな文章にぶちあたる。

 その続きはこうだ。

 《同じことを街中でやってみろ。たちまち逮捕される。》

 カーク・ダグラス(101)という、米国の名優が主演した「チャンピオン」という古い映画の台詞(せりふ)だそうである。

 街の真ん中で殴り合いをやってしまったら、そりゃあ当たり前だろうが、とついこの映画のシナリオライターを突っ込みたくなる。

 しかし、「奇妙なスポーツ」であるという点においては、激しく同意したい。

 その奇妙さとは、このスポーツのもつ「中毒性」のようなもののことである。

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 1980年代の米国中量級黄金時代にシュガー・レイ・レナード(61)というボクサーがいた。彼は引退とカムバックを何度も繰り返した。一方、そのライバルだったロベルト・デュラン(66)というパナマ選手は、50歳になってもなおリングに上がった。法外なファイトマネーを手にしているにもかかわらず、彼らはなぜか、いつまでもボクシングという競技から離れようとはしなかった。

 海外の選手ばかりではない。日本にだって、世界王座を奪取しながら無敗のまま引退した新井田豊(39)のようにカムバックして再び世界王者となり7度も防衛した選手がいる。

 また、そのファイティングスタイルから90年代に人気を博したカリスマ、辰吉丈一郎(47)のように2009年以来リングから遠ざかり、プロとしてのライセンスもとっくに失効しているにもかかわらず、もう一度リングに上がる日を夢見て、いまなおジムワークやロードワークをやめようとはしない男もいる。

 ボクサーは厳しい練習や過酷な減量に耐え、光り輝くリングの上に立つ。その異様な興奮がひとたび脳に焼き付けられると、もういけない。華やかな世界が忘れられなくなるらしい。

 だから、活躍すればするほど去るときの反動も大きい。以前、日本人で史上3人目の世界2階級制覇を遂げた井岡弘樹・西日本ボクシング協会会長(49)に、引退するときの胸中を聞いたことがある。「これからどうしようって、不安でしかたなかったんです。だから1年ほど毎日酒飲んで、カラオケ行って気をまぎらせてました」

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 昨年大みそか、彼のおいで、11月にWBAフライ級タイトルを返上していた井岡一翔(28)が記者会見し、正式に現役引退を表明した。世界3階級を制したトップボクサーの引退の背景は、これまでもあれこれささやかれてはきたが、本人の言によると「3階級制覇をかなえたときに引退しようと思っていた」ということらしい。その達成感が、次第にモチベーションを侵食していったのだろう。そして、毎年リングに立って戦ってきた日を選ぶと「ボクシングに関しては未練もない」という言葉を残してかっこよく去った。

 だが、「奇妙なスポーツ」をあなどってはならない。

 日本の軽量級シーンはいま、「怪物」井上尚弥(24)を軸に世界を巻き込んで活況を呈している。そこに彼が再び現れれば、きっと「軽量級黄金時代」への新たな切り札となるに違いない。彼のなかの「ボクシングの虫」が、もっと激しくうずかんことを…。