きょうは「人日」…人の道たる「道徳教育」の歴史をたどってみた 論説委員・山上直子

日曜に書く

 きょう7日は「人日(じんじつ)」。七草がゆを食べて無病息災を願う風習はおなじみだが、そもそも五節句の1番目で、「人の日」とされている。人を大切にする日でもあるそうだ。

 新年に、人の道たる「道徳」と教育の歴史を知りたいと、京都市学校歴史博物館を訪ねた。新年度から道徳が教科化されるのに合わせ、企画展「近代日本の道徳教育」が開かれている。明治初期から戦後までの歩みを史料で振り返る展示だ。

 近年、道徳教育のあり方が問われているが、そもそもいつからどんなふうに道徳は教えられてきたのか、知りたかった。

江戸時代は寺子屋で

 「昔の道徳教育は良かった、悪かったということではなく、こうだったということを史料から読み取っていただければ」という学芸員の和崎光太郎さん。

 まず江戸時代には現代のような「道徳」という概念はなかったものの、私塾や寺子屋ではそれに近い教育はあったそうだ。テキストは平安~鎌倉時代に成立した「実語教」などである。

 「玉磨かざれば光無し」

 「千両の金(こがね)を積むと雖(いえど)も一日の学には如(し)かず」

 いずれも勉学を推奨し、日常の道徳を説くものだ。わかりやすく簡潔で、現代にも通じる普遍的な教訓といえる。

 ところが明治を迎えると、全国的に小学校が設置され始める。政府は、国として統一したカリキュラムで一斉に子供たちを指導する学校教育を目指さなければならなかった。

 とはいえ、いまだ政治も社会も激動のさなかだ。その教育制度は急ごしらえだった。明治5年制定の学制は「国民皆学」の理念が高らかにうたわれて先駆的ではあったが、庶民の実情とはほど遠く、現実的ではなかったようだ。

 そりゃそうだろう…と思いつつ、ふと真鍮(しんちゅう)製で直径3センチほどのメダルのような展示品に目がとまった。「就学牌(しゅうがくはい)」とある。就学奨励のため、京都府は明治9年、学校に通っている子供に携帯させたそうだ。いわば就学の可視化で、着けていない子供を見ると役人や警官が就学を勧めたという。

 その牌を眺めていると、少し胸が熱くなった。明治初期、国も人も貧しかったときに、日本の総力をあげて「教育」に取り組もうとしていた心意気を感じたからだ。世界に誇る識字率の高さもその後の発展も、先人たちの努力と熱意あってこそだと思う。

易しく難解な教育勅語

 その後、学制に代わって教育令(同12年)が、そして小学校令(同19年)と続く。

 「近世にはほとんど武士だけが習得していた朱子学的な道徳が、すべての『臣民』に拡大されたのが、まさに明治10年代以降のことだと思います」と和崎さん。

 興味深いのは、富国強兵を掲げた当初は読み書きや技術の習得が優先されたが、自由民権運動がさかんになってくると「修身」が重要視されるようになる。明治13年には「筆頭教科」になった。明治天皇が語る形で国民道徳、そして国民教育の基本理念を示す教育勅語が発布されたのは明治23年である。

 そこには庶民の道徳から朱子学の道徳、西洋の博愛、日本書紀の一節まで、国内外の多くの要素が集められていた。だからわかりやすい部分と非常に難解な部分とが併存し、理解を難しくしているのだという。

先人に敬意を

 起草者の一人、井上毅は天才だと思うが、その内容が、日本固有の倫理の上にありながらも、同時に世界に理解される普遍的なものになることをめざしたからだろう。「当時の現場の先生でも、その中身をきちんと読んで、理解できた人がどれだけいたでしょうか」という和崎さん。

 井上ら当時の国の頭脳ともいうべき知識人たちが苦心して作った教育勅語が、後に極端な使われ方をしたのは確かだ。といって、その反省から一切を抹殺してしまうのもまた、極端で危険なことではないか。

 偏らず、決めつけず、歴史と時代背景を踏まえた上で公平に論じることが大切だ。道徳という川の流れの中にあって、先人の苦労を無視してはならないし、評価すべき所はきちんと評価しなければならない。

 井上はその解説書を修身教科書とするのに反対だったという。戦前戦後の出来事も、さらにはいま21世紀に起きている論争も、半ば予想していたのかもしれないと、ふと思った。(やまがみ なおこ)