紅勝て、白勝て、日本勝て! 荘重な鐘の音を聞きながら忍び寄る危機に思いを致し祈りたい 論説委員・清湖口敏 

日曜に書く

 12月というと決まって「忠臣蔵」を書きたくなる。昨年(4日付)も一昨年(27日付)も、本欄の序開きには忠臣蔵の話をもってきた。今年も都合よく?最後の最後、大みそかに執筆順が回ってきた。ならば例を踏襲しない手はないと、まずは次のような謎かけから-。

◆大石内蔵助の「才」

 「流浪の大石とかけて、ばくち打ちととく。心は」

 お分かりだろうか。心は「腹に才(賽(さい))が有る」。

 明治19年刊の「しん板なぞなぞ双六(すごろく)」に大石内蔵助の絵入りで紹介されている謎かけで、なるほど、大石の隠れた才がなければ赤穂浪士は首尾よく本懐を遂げられなかったろう。

 江戸城内での刃傷事件で、ときの幕府は喧嘩(けんか)両成敗の裁きをせずに、浅野内匠頭にだけ切腹を命じた。相手の吉良上野介にはお咎(とが)めなしである。大石らの決起は幕府の不公平な裁定への反抗でもあった。

 だが、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」の名言で知られる『葉隠』は、この討ち入りを批判する。藩主の死から時間がかかり過ぎ、もしその間に吉良が病死でもしたら「残念千万」だというのだ。武士たる者、喧嘩の勝ち負けよりも美しい死を選ぶというのが、同書の説く行動の美学である。

 卑劣な勝利は武士として恥ずべきものだが、かといって負けてしまったのでは喧嘩の意味がない。討ち入りを急げば吉良側や幕府の警戒網に捕まり、全員がむざむざと斬り殺され、主君の恨みは晴らし得ない。後に吉良家が断絶し、結果的に喧嘩両成敗となったのも、大石の才による戦略的勝利といえよう。

◆戦う以上は…

 戦う以上はまず勝つ、それも美しく勝つのが本来の武士道というものではなかろうか。にもかかわらず『葉隠』が「勝負は末なり」「時の行き懸(がか)りにて勝負はあるべし」(勝ち負けは枝葉のこと、時の運)と断じたのは、もはや戦乱で武士が死ぬこともない元禄の太平ムードが背景にあったからではないか。

 翻って現在のわが国は、近隣諸国からさまざまな「戦」を仕掛けられ、とても太平とは呼べない緊迫した状況を強いられている。北朝鮮がいつミサイルを日本に撃ち込んでくるか、中国がいつ尖閣諸島に上陸してくるか、全く予断を許さない。

 日本の抑止力はといえば極めて脆弱(ぜいじゃく)で、国民を守るために防衛省が長距離巡航ミサイルの導入を決めても、国内にはすぐに「専守防衛に反する」といった批判が噴き出す。日本の領土が乗っ取られ、あるいは焦土と化すのを座して待てというのか。

 ひとたび負ければ取り返しがつかなくなるのは目に見えている。それは中国や韓国が世界規模で展開している「歴史戦」も同じだ。南京大虐殺、慰安婦の強制連行など嘘の歴史をまき散らす中韓に日本は敗勢をかこつばかりで、このままでは嘘が事実として定着してしまう。

 日本人の「戦って勝つ」精神が根腐れを起こしているとしか思えない。元凶はきっと連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策にあるのに違いなく、日本はこれによって永遠に勝てないように仕向けられた。何よりの象徴が日本国憲法で、憲法を正さないかぎり、日本は近隣国との「戦」も対等には戦えず、もちろん勝てる道理もない。

◆歪んだ平等主義

 自国を危うくするその憲法を後生大事に守っているのが他ならぬ日本人だ。現実の脅威が目前に迫るなかでなお、「勝ち負けは枝葉、時の運」と言わんばかりの戯言(たわごと)を繰り返す政治家やメディアの何と多いことか。

 きょうは大みそか。夜はNHKの紅白歌合戦を楽しむ人も多かろう。先週の本欄では、鹿間孝一論説委員がこの国民的番組の歴史に触れている。終戦の年にNHKが企画した歌番組の題名に「合戦」が付いていたことから、GHQがクレームをつけたという話も示されていた。音楽番組といえども、敗戦国の国民には「戦」をすることが許されなかったのだ。

 全国学力テストの成績公表について、「競争をあおる」などの批判が根強いのも、「勝ち負け」を競わないことが平等主義だと信じる戦後の歪(ゆが)んだ風潮が教育界にまで浸潤したものか。

 紅(あか)勝て、白勝てと華やぐうちに歌合戦が幕を閉じると、画面は一転、各地の除夜の風景に切り替わろう。荘重な鐘の音を聞きながら来る年の平穏を願い、併せて忍び寄る危機にもそっと思いを致してみたい。そして祈りたい。「日本勝て!」…と。(せこぐち さとし)