冷たい戦いを超えて(10)器械を超えた天才も少女に戻る

オリンピズム
段違い平行棒で、手が滑り、バーから落ちる寸前のコマネチ。落下は優勝を狙うルーマニアに大きな打撃となった=1980年7月(UPI=共同)

 モスクワ五輪の6日目、1980年7月24日、レーニンスタジアム(現ルジニキスタジアム)の複合施設にあるスポーツパレスでは、熱い戦いが繰り広げられていた。体操女子の個人総合。連覇を狙うルーマニアのナディア・コマネチと、地元の利を生かして逃げ切ろうとするソ連のエレナ・ダビドワ。その幕切れは後味の悪いものとなった。

 「五輪は常に最高の技術水準で開かれてきた偉大なスポーツの祭典。モスクワ大会のために一生懸命、練習していた。大変厳しい競技になるだろうが、勝ちたい」。大会前にそう話していた76年モントリオール五輪の覇者、コマネチは土壇場で驚異の巻き返しを見せる。

 前日に落下して4位となった段違い平行棒の自由演技で10点満点を出し、2位に浮上、最終種目の平均台にすべてをかけた。だが、演技が終わり思わぬ展開となる。点数で審判団の意見がまとまらないのだ。ルーマニア出身の審判長が決定的なミスはなかったとし、他の審判員の採点が低すぎることに納得しなかった。

 国際体操連盟会長も割り込んで激論を交わす。いまふうにビデオ判定も持ち込む。結果は、総合得点でわずか0・075及ばず、コマネチは2位。一世を風靡(ふうび)した「コマネチ時代」は5年で幕を下ろすことになった。

 だが、わずかの差の根拠はよくわからないままだった。当時の産経新聞はモスクワ発の特派員電でこう報じている。

 《主観に左右されがちな体操競技は、地元の声援が審判に影響を与えるほか、体操王国ソ連の発言の強さがしばしば指摘されている。体操競技には…不明瞭な審判をめぐるトラブルが多い》

 もめている間、会場内は「ソ連、ソ連」の大合唱と手拍子がコマネチを圧倒した。

 《両手を腰に当てて立ち尽くした。視線を四方にやる。髪をかき上げる。鼻に手をやって涙ぐむ。ろう人形のように表情を変えない体操選手から、十八歳の多感な娘に戻ったようにみえた》

 モントリオール五輪で競技史上初となる10点満点を相次いでマーク。だが、いかに鍛え抜き、正確さとしなやかさで勝負しようとも、男子顔負けの大技を連発するダビドワには難度の差で及ばなかった。これが同じ18歳なのか。ソ連の強さをまざまざと見せつけられた決勝だった。

 女子競技の熱い戦いも実はソ連の五輪参加で加速した。スポーツ界にも“男女平等”を持ち込み、世界の女性にスポーツへの関心を広めることになったのだ。52年ヘルシンキ五輪とモスクワ五輪で、女子選手数は519人(全体の10%)から1115人(同21%)に増え、女子の種目数も25から50に倍増した。

 だが、それはソ連の強さを世界に見せつける機会を広げることでもあった。ルーマニア西部トランシルバニア地方の高校を卒業し、コーチを志したコマネチ。悲劇を招くことになったソ連と衛星国の確執もやがて冷戦とともに消えていった。 =敬称略 (蔭山実)