急速に左旋回した朝日、共産党指導者を「国民的英雄」と称賛した読売…戦後の新聞に見る左傾の源流 論説委員・河村直哉

日曜に書く
朝日新聞社東京本社=東京都中央区(本社チャーターヘリから、納冨康撮影)

 いま、戦後の古い新聞を集中的に見ている。

戦後の左旋回

 新聞の歴史には以前から関心があった。戦後まもなく、日本の新聞のあるものは急速な左旋回を見せている。

 朝日新聞は昭和20年10月24日、役員らの辞任を伝え、「新聞の戦争責任清算」という社説を載せた。「過去一切への仮借なき批判と清算」が必要だとし、「先(ま)ず自らを裁かねばならぬ」としている。

 20年11月7日の社説では、新聞は「工場に、職場に、農山村に働く国民」のための機関であるとした。この表現には、共産主義ないし社会主義との近さを読んでよいだろう。

 実際、朝日の紙面はこのころ左傾する。たとえば共産党の指導者の一人、野坂参三の発言に関する、21年1月23日の社説。旧政党を批判し、「左翼の諸党が今後堅実な発展をとげ、国民全体のうちにしっかりと根を張った政治的中心勢力に成長すること」を期待している。

 いまは保守的な読売新聞は20年10月25日、社説「『新聞』への断罪」を掲載。新聞の戦争責任を厳しく断じた。

 読売では労働争議が激しくなり、最高闘争委員長兼組合長が編集局長となった。そのころの同紙には、左翼色が強く出ている。20年11月14日の「日本共産党の初登場」では、公然活動を行う共産党に期待を寄せた。21年1月10日の社説は、帰国する共産党の野坂を「国民的英雄」と称賛した。

 敗戦後の困窮した労働者の間に共産思想が吹き荒れ、労働争議が多発していた時期だった。混乱のなかで、それぞれの新聞が進むべき道を模索していた時期でもあった。

国家否定の思想

 当然のことだが、悪意でもってこのようなことを書き連ねているのではない。これらは歴史上の事実である。『読売新聞百年史』は、当時を「左傾紙面」として扱っている。新聞は世論形成に一定の役割を果たす。いまの日本を知るために、過去を知ることが必要なのだ。

 こうした論調に読み取れるのは、新聞も含めて戦争を行った日本という国家の断罪と、共産思想への接近である。

 これは、起こるべくして起こったことのように思える。そもそも共産思想にとって国家は階級支配の機関であり、「廃絶」されるべきものだった(レーニン『国家と革命』)。

 終戦までの日本の断罪と共産思想は、国家に否定的であるという点で通じてくる。

 また実際の運動でも、読売の元記者は戦後、新聞社内に共産党の「新聞細胞(支部)」があって自分もその一人だったと、あっけらかんと書いている(増山太助『読売争議』)。

 その後の2紙の論調の移り変わりを、細かにたどってはいない。共産主義の失敗は歴史的に明らかであり、いまさら「細胞」などもあるまい。

 しかし国家を否定的に考える視点は、残っているかもしれないのである。

 歴史問題で自国を過剰にあしざまに見る見方など、そのようなものではないか。

では、産経は?

 それならお前のところはどうなんだという話に当然、なる。

 終戦後のおびただしい紙面を繰っているのだが、見た限り、急速な左傾は起こっていない。

 もちろん他紙のように模索の時期でもあっただろう。社会主義に近さを示したような社説(現在の「主張」)もあるなど、揺れも見られる。

 けれども共産思想への警戒は、戦後まもなくから訴えている。21年8月1日の社説にこんな一文がある。

 「戦時中極端に右に引締められていた国民が、敗戦と同時に極左に走りたがるのは自然の理ともいえるが、(略)左右両極端いずれにも走るべきではなく、ひたすら中道を誤らないよう努めなければならぬ」

 共産運動が盛んな時期に、なぜこんな視点を持てたのか。

 当時の産経は、「産業経済新聞」という題字で、大阪で発行される経済紙だった。大半は経済記事である。経済の復興に寄与しようとする新聞として、過激な労働争議は生産を妨げるものだった。社説はしばしばこれを批判し、労資協調を早い時期から訴えている。

 手前みそばかりをいうつもりはない。まだ作業途中だし、教訓とすべき点もあるだろう。

 それにしても、目をしばたたかせながら紙面を読んでいて、ちょっぴりうれしく思う。(かわむら なおや)