冷たい戦いを超えて(7) IOCを“平等主義者”のものに

オリンピズム

 「オリンピックムーブメントを発展させる新たな推進力となる」。1980年7月19日、モスクワ五輪の開会式で組織委員会の会長、イグナーチ・ノビコフはこうあいさつした。だが、ソ連はいったい何を推進しようとしたのか。

 国際オリンピック委員会(IOC)の加盟国の大幅な増加にそれが示されている。五輪参加は1952年ヘルシンキ五輪の69カ国から72年ミュンヘン五輪の121カ国へと倍増した。ソ連の加盟が社会主義国や発展途上国を引き入れる結果となったからだ。

 そこで訴えたのが“ソ連的民主化”という戦略。「欧州の紳士クラブ」と位置づけられたIOCを“平等主義者”のものとし、「世界のあらゆる地域からなる、真に国際的な組織」にする。“平等主義者”の中心となって世界へ影響力を拡大していく狙いだ。

 戦後のスターリン体制下、国際組織と関係を築くことは米国主導の戦後秩序に取り込まれ、国家の弱さを見せるものだと考えられていた。それが後に大きく変わった。当時の資料などを基に昨年末に米国で刊行された論文『五輪、ソ連スポーツ当局と冷戦』でその実情が分析されている。

 《冷戦初期は政権の基盤固めに重点がおかれ、国外に勢力を拡大する状況にはなかった。転機となったのがフルシチョフ体制への移行。国際社会との関係を強め、超大国としての地位を固めるとともに、文化でも平和の提唱者として米国に挑むことになった》

 第二次大戦で連合国が勝利し、戦勝国側のソ連もオリンピックムーブメントへの参加機運が出てくる。戦後の荒廃からの再生に向けて、IOC委員は、ソ連を迎え入れ、スポーツの力によって世界が統合できると考えた。

 「国際化に伴い、IOCが名声を維持するなら、早期にすべての国家でオリンピック委員会(NOC)を組織する必要がある」。米国のビジネスマンだったIOC副会長のアベリー・ブランデージもそう言うしかなかった。

 ソ連は「万人にスポーツを」という五輪の理想に、男女平等や反植民地主義、個人の健康と躾(しつけ)、全体的な発達への寄与という独特の考えを巧みに結びつけた。

 ソ連はIOCに加盟した直後のヘルシンキ五輪から参加し、295人の選手団でメダル71個(金メダル22個)を獲得する。冷戦の競争を反映してスポーツが外交の重要な手段となった瞬間でもあった。

 それから28年、モスクワ五輪を迎え、反政府行為の拡大を恐れて市民と外国人の接触を絶つことに躍起になる当局の姿があった。当時の産経新聞はこう報じている。

 《アリのはい出るすき間のないほどの…検査が行われること自体、モスクワ・オリンピックが果たして“平和の祭典”であるのかと疑わせるものだろう。民族友好のふん囲気など生まれる余地はなさそうだ》

 ソ連の“推進力”は世界の分断を拡大した。五輪の拡大が冷戦の展開とともにあったとは皮肉である。 =敬称略 (蔭山実)