正木利和 卓球の繊細さが生みだす滑らかさ

スポーツ茶論

 近藤高弘(59)は京都の陶芸一家に生まれた。祖父の悠三(1902~85年)は有名な染付の人間国宝、もちろん伯父も父も陶芸家である。ところが、若き日の近藤が熱中したのは卓球だったのだという。

 「小学校のころサッカーや野球、かけっこ、どれも普通の子でした。でも、卓球は誰にも負けなかった。ヒーローになれたんです」

 自然、中学で卓球部に入る。けれど、部にはコーチがいなかった。そこで、道場あらしのようなことをやった。当時、京都の町のあちこちにあった卓球場に出向き、強いといわれるおとなたちに稽古をつけてもらったのである。すると、中学1年の冬、京都市の新人戦で優勝してしまった。

 しかし、2年のとき、ぱったり勝てなくなってコーチのいない限界を感じたのだという。なんとか親に頼み込み、奈良の天理大学に通って卓球部で練習をつけてもらうようにした。おかげで、3年のときには京都府のチャンピオン、近畿大会でも3位に入った。

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 強豪・東山高校に進学、2年でレギュラー入り、3年のときには高校総体シングルスで頂点に立った。

 法大に進んだあともダブルスの全日本学生王者やシングルスの関東学生王者になった。「当時は朝から晩まで1日10時間は練習していました」

 卒業後、実業団の強豪、協和発酵入り。国際大会代表にも幾度か選ばれた。しかし、世界ではなかなか勝たせてもらえなかった。仕事をしながら卓球も、という実業団選手になったのはいいが、練習量は学生時代の3分の1に減った。それまで卓球に人生を懸けてきた。勝てたら死んでもいいと思った試合が3つもあったのがその証しだ。しかし、当時の日本卓球界に、プロの選択肢はない。

 世界とアマという二つの壁にぶつかり「このまま一生サラリーマンか…」と将来を考えていたところ、真摯(しんし)に陶芸を究めようとしていた伯父の死をきっかけに、家業である焼き物の道に進むことを決心する。

 25歳で故郷にもどり、父の元で修業を積んだ。

 「0・2秒の戦い」といわれる卓球は、意識を研ぎ澄ました練習の反復で体に戦いの感覚をたたき込む。同様に、彼は1日何時間もろくろを回し、造る技術を体に覚え込ませた。

 30歳で、自分をどう構築するかを考えたとき、「陶芸」の道で祖父のような人間国宝を目指すのではなく、「アート」としての陶芸で、世界と戦おうと決めた。英国留学や米国などでの個展の開催などを通じ、焼き物でしかなしえない造形が、世界のアートシーンでも通用するという手応えをつかんだ。

 「伝統回帰ではない。焼き物に、世界性をもつ可能性を感じるのです」

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 卓球人生を振り返るとき「おかげでタイトルを取ることができた」と思い出すラケットが3本あるそうだ。たった1グラムの差でもスイングが変わる「手の延長線」にある道具に、彼は徹底的にこだわった。自然乾燥で仕上げたヒノキの単板。それを求め、メーカーの倉庫をあさったこともある。

 京都・祇園の何必館・京都現代美術館で26日まで開かれている彼の個展には、「手の思想」というサブタイトルがついている。彼の造った滑らかな白磁のなかには、手の感じる紙一重の差が勝者と敗者を分けることもある、卓球というスポーツに打ち込んだ経験がこめられている。