漫画で読む古典もあなどれない 論説委員・清湖口敏

日曜に書く

 読書週間である。週間とは言いながら実際には3日の文化の日を挟んで都合2週間あり、その間の11月1日は「古典の日」とされている。古典の対象は必ずしも文学とは限らず美術・音楽・芸能…と幅広いが、源氏物語千年紀を記念して宣言された日であることを思えば、やはり古典文学への関心を最も強く促しているのであろう。

 ◆日本の「異文化」

 古典文学の重要性は改めて言うまでもない。国際化の時代にあって私たちは、外国の異文化の摂取には熱心なのだが、日本の中の異文化にはなかなか目を向けようとしない。前者を地理的異文化とするなら、後者は歴史的異文化ともいえ、日本の古い時代の生活様式や人々のものの考え方などを学ぶことによって、変容はしつつも現代まで連綿と継承されてきた日本文化に対する時代ごとの共通理解を知ることができる。

 もっとも、現代人が古典文学の原文を読むのは極めて難しい作業である。とにかく言葉が分からない。漱石や芥川、いや三島由紀夫の作品でさえも注釈なしには読めないといわれる若者世代ではなおのこと、古典は近寄りがたい存在に違いない。

 そんな若者でも気軽に古典とつきあえる方法があると知人に教えられ、何かと問えば、漫画本ということだった。

 「なんだ漫画か」

 私は『少年』や『ぼくら』『少年サンデー』といった漫画雑誌に夢中になった世代だから決して漫画嫌いではないのだが、古典を漫画でというのにはさすがに抵抗を覚える。

 ◆「食わず嫌いだ」

 新明解国語辞典も言う。「寝ころがって漫画本を見たり電車の中で週刊誌を読んだりすることは、勝義の読書には含まれない」と。寝ころがるかどうかはともかく、文学を漫画でというのは少なくとも私の読書作法にはなじまないのだった。

 「それを食わず嫌いというのだ」。知人のこの一言に、ならばと手に取ったのが『まんがで読破 おくのほそ道』(イースト・プレス刊)である。読んで驚いた。漫画といってばかにできないどころか、その作りたるや実に丁寧なのである。難語には「紙子…防寒用の渋紙製の着物」というふうに解説を付けている。一般の通釈本などに見られる頭注や脚注と同じだ。

 それだけではない。『おくのほそ道』の原文は、「その日やうやう草加といふ宿(しゅく)にたどり着きにけり」の後、ごく短い文を挟んで「室(むろ)の八島(やしま)に詣(けい)す」と出てくる。しかし漫画では、草加の月を眺めつつ芭蕉が懐旧に浸るシーンが登場し、伊賀上野出身の芭蕉がなぜ江戸に下向し俳諧の道を決断したかなど、人物像の理解を助ける見事な仕掛けが用意されていた。これなら古典文学との距離も一気に縮まろうというものである。

 古典読解に骨が折れるのは言葉の問題のほか、当時の時代状況-例えば服装や住居、風物などが具体的にイメージしにくい点も影響していよう。だが漫画ならそれらも一目瞭然に把握でき、難なく古典の世界に入っていける。結局私は古典入門書としての漫画本の効用に目覚め、これまでに計3冊を“読破”するに至ったのである。次はいよいよ『源氏物語』か…。

 ところで古典入門といえば、現代語訳にもちょっとした変化が起きている。橋本治氏の『桃尻語訳 枕草子』が世に出て話題を呼んだのはもう30年も前の話だが、2年前には芥川賞作家の町田康氏が『宇治拾遺物語』を現代語訳するなど、個性的な訳文が読者を魅了している。

 ◆まるで上方落語

 宇治拾遺の第133話「そら入水(じゅすい)したる僧の事」(町田訳では「偽装入水を企てた僧侶のこと」)で、川で溺れかけたところを助けられた僧が礼を言う場面。原文には「広大の御恩蒙(こうぶ)り候ひぬ」とだけあるのが、町田氏にかかれば「ああ、えらい目におおた。けど、おおき、ありがとう。おおき、ありがとう。お陰様で助かりました」となる。まるで上方落語の台本を読むような感じで、逐語訳を重んじる国文学者にはさだめし書けない訳だろう(もっとも学者がこんな訳をしたら、それはそれで問題かもしれないが)。

 とにもかくにも古典嫌いをなくすには、これら漫画や新しい現代語訳を活用するのも一法かと思われる。ただし、せっかく古典への扉を開きながら、その奥へと入っていかないのはあまりにも惜しい。いつの日かぜひ、原文のもつリズムや格調にも触れてほしいものである。(せこぐち さとし)