冷たい戦いを超えて(2)ボイコットなら3度目はなかった

オリンピズム
シンガポールでのIOC総会でロンドン五輪招致で演説をするセバスチャン・コー=2005年7月6日(ゲッティ=共同)

 「彼の考えを変えることは自分にはできないと思った」

 7年前に公開された英政府の極秘文書にこんな記載がある。「彼」とはセバスチャン・コーの父でコーチでもあるピーター・コー。1980年4月、水面下で説得していた閣僚のダグラス・ハードは、モスクワ五輪ボイコットに強硬に反対するコーの父に音を上げ、こう記した。

 英国の選手団がモスクワ五輪に参加した経緯はこれまでも伝えられてきたが、その裏に何があったかはあまり知られていない。コーの父は選手に犠牲を強いるという政府のやり方に反発したが、政府内ではこうも伝えられていた。

 「選手らは、ソ連とこれまで通りに通商関係を維持しようとする政治家が“ソ連攻撃”の手段としてわれわれを利用しようとしていると考えている」。スポーツ閣外相のヘクター・モンローがハードに「個人的にだが」と断りつつ語った話だ。英国オリンピック委員会(BOA)はこうした選手の意識を知っていた。

 だが、事態はこじれる。

 「おまえは共産主義者かといわれた。そんなことはあるはずがないのに。どんなアスリートも政治的な見解は持っているが、これほど重大な決断に個人の政治的判断が影響するはずはない」。コーはモスクワ五輪参加を決めた当時のことをこう述懐していた。

 50年代の米国の赤狩りでもあるまいし、英国でこういう状況があったとはいささか驚く。実際、コーが参加を決断したのも、英下院でボイコット反対を主張するBOA会長のデニス・フォローズが「危険な共産主義者」と非難されたときだった。

 ただ、コーは伝記で複雑な心境も語っている。

 「アフガニスタンの問題は自分なりにも十分に考えた。どんな政治的見解を持っていても選挙で選ばれた政府は支持しなければいけない。議会に逆らうべきでもない。しかし、根拠も調査もなく代替五輪を話し合う姿勢は政治的なだけで戦略がない。短期的な報復としてスポーツに制約を課すべきではない」

 英国内の世論は7対3でボイコット反対が圧倒的に優勢だった。コーは米国と西ドイツの政府には右派の野党勢力からの突き上げもあると感じていた。そして、最後に頼ったのが元保健相、イーノック・パウエルの言葉だった。

 「国民の意思あるいは立法行為なくして、政府は何事も強制はできない」

 まことに英国らしい言葉である。それから四半世紀、コーの決断が再び生きる。

 2005年7月6日、シンガポールで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会。12年夏季五輪招致で行った演説の一節、「英国は夏、冬を通じてすべての大会に選手を派遣してきた」-。

 「あのときボイコットしていたら、そして、あの演説ができなかったら、3度目のロンドン五輪はなかっただろう」とコー。歴史とはそういう力を持っていると感じざるを得ない。=敬称略(蔭山実)