「M78星雲」の姉妹都市と「一人の道」 論説委員・別府育郎

日曜に書く

ウルトラマン

 須賀川市は福島県のほぼ中央に位置する。内陸部のため、東日本大震災では津波の被害こそ免れたものの、震度6強の強い揺れと農業ダムの決壊などで甚大な被害を受けた。

 2両編成の東北線に乗り、須賀川駅に着くと、まず目に入るのが「姉妹都市宣言」だ。

 《須賀川市は、M78星雲 光の国と姉妹都市になりました》

 町中では通り沿いにウルトラ兄弟や一族に加えてゴモラ、エレキングといったおなじみの怪獣の像が並び、日が暮れるとライトアップされる。

 須賀川市は特撮王、円谷英二の故郷である。円谷は映画「ゴジラ」の特撮を担当し、テレビではウルトラマン、ウルトラセブンなどの人気シリーズを生んだことで知られる。

 「つむらや」と読む円谷姓はこの地では珍しくないようで、市の電話帳には圓谷姓も含めて70世帯以上の記載があった。

国立の日の丸

 1964年東京五輪マラソンの銅メダリスト、円谷幸吉も須賀川市の出身であり、現在は市内の十念寺に眠る。

 円谷はあの日、エチオピアの「裸足(はだし)の英雄」アベベに続いて2番目で国立競技場に帰ってきた。英国のヒートリーが猛然と円谷の背中を追う。

 8歳上の兄、喜久造さんは第2コーナーのスタンドで、ただただ弟の完走を念じていた。後続は遠い。完走さえすれば、メダルの獲得だ。

 ヒートリーには抜かれたが、3位の円谷は表彰台に上がり、国立競技場のポールに日の丸が掲揚された。これが東京五輪で唯一、国立の表彰式で揚がった日の丸である。

 ただ円谷は、大観衆の面前で抜かれ、順位を落としたことが許せなかった。メキシコ五輪での雪辱を誓うが故障も重なり、4年後、自ら命を絶った。

 「父上様 母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました」「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒 お許し下さい」「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」

 川端康成が「千万言も尽くせぬ哀切」と評した遺書は、銅メダルや当時のユニホーム、シューズなどの遺品とともに、須賀川アリーナ内の円谷幸吉メモリアルホールに飾られている。

 これら遺品を管理し、須賀川を訪れたアベベの息子や、ヒートリー夫妻らを、十念寺の墓に案内したのは、兄の喜久造さんである。だが喜久造さんは長い間、弟の遺書を最後まで目で追うことができないでいた。あまりに辛(つら)く悲しく、当時の状況に対する怒りもあった。

 メモリアルホールは、茶木みやこが歌う「一人の道」で来館者を迎える。

 友人が円谷の遺書を題材に詞を書き、茶木が曲をつけ、フォークデュオ「ピンク・ピクルス」でレコード化した「一人の道」は、1970年代、ラジオの深夜放送を中心に、多くの支持を受けた。

 長く歌の世界から離れていた茶木が2000年、50歳を機にまた歌い出したのも、体操の具志堅幸司やマラソンの宗兄弟が愛唱歌としていることを聞いたのがきっかけだったという。

 それでもこの曲を歌い続けることに躊躇(ちゅうちょ)はあったが、「あなたが歌ってくれることで皆が幸吉のことを覚えていてくれる」という喜久造さんの一言が、背中を押した。

 夜、市内のライブハウスで茶木が歌った。「一人の道」は、ここで歌うときのみ、曲の冒頭で店の女性が円谷の遺書の全文を朗読する。

 4年前のライブでは喜久造さんも客席に座り、朗読を聴いた。長く避けてきた全文に、改めて涙を流したのだという。

陸上ブーム

 市内で知り合った男性は東京五輪の開催時、円谷の出身小学校の2年生だった。

 五輪後は当然のように陸上ブームが訪れ、皆、走ることに夢中になった。小学校にも陸上部ができ、男性は長距離走者として多くの大会に参加した。中学でも陸上部に進んだが、足を痛めて理科クラブに移った。

 「その後は、星ばかりながめて暮らしていましたね」

 少年ランナーと五輪メダリストを安易に比較することはできまいが、引退後にはそんな生き方もあり得たのになと、少し感傷的になった。小雨降る須賀川の夜空を見上げてみたが、時に恵まれず、星は、ひとつも見えなかった。(べっぷ いくろう)