“トビウオ”とその時代(13)泳ぐだけなら、魚に勝てない…五輪でメダルを取るために何が必要か

オリンピズム

 選手として五輪と縁遠かった古橋広之進だが、8位に敗れたヘルシンキ大会後も2008年北京五輪まですべての夏季五輪に参加し、日本選手団を支え続けた。裏方として関わるきっかけとなったのが、五輪の翌年2月から年末まで、羊毛取引の資格を取るためにオーストラリアの羊毛学校に留学したことだった。

 当時のオーストラリアは対日感情が非常に悪く、学校のある町に滞在できる状況ではなかったという。朝一番の汽車でメルボルンのホテルから2時間もかけて通学する日々。さらに、オーストラリア水泳連盟の呼びかけでチャリティーレースに出場したところ、元軍人からクレームがつき、一時水泳禁止の処分を受けたこともあった。

 一方で「頼み込まれて田舎の村で模範水泳を披露」した際には、「寒村で簡素なプール。水も決してきれいではなかったが、村人たちには非常に温かく迎えてもらった」ということも。こうしたオーストラリアでの経験を買われ、1956年メルボルン五輪で水泳チームのマネジャーを務めると、これを契機にその後も五輪に関わっていく。

 64年東京五輪の際には、日本選手団の大島鎌吉団長秘書として携わった。さらに、東京五輪で喫した「水泳ニッポン」の惨敗が新たな転機となる。

 60年ローマ五輪までに日本が競泳で獲得した五輪金メダルは11個。当然、自国開催で期待は高まったが、結果は銅メダル1つのみ。この惨敗からの復活、水泳ニッポンの再建を期して指導者や選手らが携わって設立されていったのがスイミングクラブだった。50年代に入ると欧米では温水プールが普及し、幼少期から一年中泳ぐことができた。対して日本は58年アジア大会のために造られた東京・千駄ケ谷の屋内プールくらい。この差が「東京」で表れたのだ。古橋も65年、日本水連から懇請を受けて強化責任者に就任。ジュニアや女子の強化を図る「再建10年計画」を練り上げ、その後も強化に携わっていった。

 古橋は「速く泳ぐだけなら、魚には勝てない」とよく話していた。日本水連副会長の上野広治は「五輪でメダルを取るために何が必要かを探求する必要性を問いかけた言葉」と捉える。また、常々語っていた「競技を終えた後の人生の方が圧倒的に長い。競技から得たものを実人生に生かし、社会に貢献できなければ、スポーツをやる意味はない」という思いも込められていると思う。2008年、スポーツ選手として初めて文化勲章を受章。その際に語ったのは「日本ではスポーツの社会的評価が低い。スポーツは社会のためになるんだと証明したかったので光栄であり、ありがたい」だった。

 再びの東京五輪まで3年。大会の成功はもちろん、前回はかなわなかった「水泳ニッポン」の大活躍を期待したい。=敬称略〈おわり〉(金子昌世)