北朝鮮に脅され〝人質〟に取られたオリンピック 論説委員・佐野慎輔

日曜に書く

 ふと思いつき、書棚をあさった。オリンピック関連本の奥から掘り出したのは、『オリンピックの身代金』(奥田英朗著、角川書店・2008年)。翌年に吉川英治文学賞をうけ、その後、テレビドラマ化されたからご存じの方も多いだろう。

小説が描く64年夏

 舞台は1964年夏の東京。10月のオリンピック開催に向けて、変貌を遂げていく都市で爆弾事件が起きた。同時に、警視庁宛てに脅迫状が届く。

 「小生 東京オリンピックのカイサイをボウガイします」

 「草加次郎」を名乗る犯人とは…いや、これ以上書くと“営業妨害”になるからよそう。

 その「草加次郎」は、大学時代の恩師に宛てて長い手紙をしたためる。そしてオリンピックへの思いをこう語った。

 「唐突ですが、先生は東京オリンピックをどうお考えでしょうか。わたしは、国際社会への進出ではなく、西欧的普遍思想への無邪気な迎合であると思えてなりません」「急造の建築物に、西欧都市を装いたくてしょうがない東京の歪(ゆが)みが表れています。そしてその巨大で美麗なコンクリートの塊に、現実の日本は覆い隠され、無視されようとしています」「労働者たちは搾取の底辺にいます。彼らは羊のようにおとなしくしています。オリンピックは一時の飴(あめ)と言うことなのでしょう」

 当時、「一億、総歓迎」といわれた時代のなかの、ある一部の思いの代弁といえようか。同調はしないけれども、いつの時代にも、こうした声は起こりうるものだと思う。

欧州で懸念相次ぐ

 あの、北朝鮮の「ロケットマン」はオリンピックに関して、どんな思いでいるのだろう。

 来年2月の平昌冬季大会開幕まで4カ月あまり。韓国の文在寅政権は、北朝鮮の参画を促そうとさまざまな方策を講じたけれどもまるで反応しなかった。実現性の乏しい“思いつき”だと、見透かしていたのかもしれない。つっけんどんに突き放しているように映る。

 1988年ソウル大会が開催される前、彼の父である当時の最高指導者は過剰に反応した。前年の87年11月に起きた「大韓航空機爆破事件」。日本人を騙(かた)る男女の北朝鮮工作員が仕掛けた爆弾テロは、大会開催を妨害するための工作だったといわれている。

 さらに北は、南で開く大会に反発して地域予選から不参加、自国民に大会の存在自体を秘匿したとされる。そして翌89年、世界青年学生祭典なるイベントを開催、対抗した意識をみせたものの空振りに終わった。

 いま北朝鮮はミサイル発射を繰り返す。平昌大会は“人質”に取られたといっていい。

 「状況が悪化し、選手の安全が保証されなければ、平昌大会には参加しない」。その後、ニュアンスを緩めはしたが、フランスのスポーツ相がそう発言したのは、ほんの10日ほど前である。これに程度こそ違え、オーストリアやドイツ、スウェーデンといった冬季競技の強豪国が相次いで懸念を示した。

北朝鮮の望む結果

 国際オリンピック委員会(IOC)は例によって、警備の厳しさを理由に、「大会期間中、平昌は世界中で一番、安全な場所となる」と繰り返す。

 しかし、トランプ米大統領との「言い争い」が募れば、事態はより悪化の道をたどり、懸念では済まなくなる。敏感な選手たちが早々に、個々に参加を忌避するケースも出てこよう。

 「もし安全上の懸念を理由に参加しないとなれば、北朝鮮の脅迫に屈することになる」。朝鮮日報日本語版は、そうなった場合、金正恩朝鮮労働党委員長の「最も望む結果となる」として国際社会の結束を訴える。

 やっかいな“飛び道具”は、近隣諸国の安全とともに、世界最大のスポーツイベントの存在をも危うくする。

 IOCは北朝鮮との交渉の窓口を一本化、文政権の口出しを抑えたと聞く。そのうえで、北朝鮮に国際審判員の派遣を要請し、選手の参加資格取得を後押しする。平昌大会に選手団を派遣するとなれば、乱暴なことはしてこないとの計算だろう。

 逆に選手団派遣を取りやめたなら、何かが起こる合図となるのか。現実は、金正恩氏の思惑に委ねられている。

 事態は、2020年東京大会にも関わる。『オリンピックの身代金』は一方で、犯人逮捕に動く人々の姿を描く。日本は、あらゆる手段を講じて、北の暴発を封じなければならない。(さの しんすけ)