勝海舟、山田方谷起用 幕府に殉じた最後の老中板倉勝静 論説委員・井伊重之

日曜に書く

 来月14日は徳川幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還から150年にあたる。全国で記念イベントが開かれており、来年の明治維新150周年まで記念行事が続く。

 大政奉還を奏上したのは、徳川幕府で最後の将軍となった第15代慶喜である。歴代将軍が京都の居城としていた二条城を舞台にする歴史の節目だが、その慶喜の傍らで任務にあたっていた最後の老中の存在は、どれだけ知られているだろう。

 板倉勝静(かつきよ)は、備中松山藩(現在の岡山県高梁市)を治める大名だった。寛政の改革で知られる老中・松平定信を祖父として陸奥国白河藩(福島県白河市)に生まれ、備中松山藩の板倉家に婿養子として迎えられた。

 ◆幕末に進められた成長戦略

 幕末期に民需主導の成長戦略を推進し、窮乏していた備中松山藩の財政をわずか数年で立て直した山田方谷(ほうこく)の業績は昨年、この欄で紹介した。その先進的な改革は経済界などでも注目されるようになってきたが、陽明学者だった方谷を藩重役の元締役に登用し、藩政改革を委ねたのが勝静である。

 短期間でめざましい成果を挙げた改革が幕府から評価され、勝静は寺社奉行に取り立てられた。安政の大獄などで強権的だった大老の井伊直弼に意見したことで職を一時免じられたものの、桜田門外の変で直弼が暗殺されると、幕府に呼び戻されて今度は老中に抜擢(ばってき)された。

 慶喜にも重用された勝静は老中首座に昇格する。しかし、幕末という激動の時代に翻弄され、その運命は大きく暗転していく。

 慶喜は幕府が朝廷に大政奉還しても、実務能力が乏しい朝廷は幕府に統治を任せるだろうとみていた。だが、薩摩・長州藩などは王政復古の大号令で新政府を樹立し、大政奉還から約3カ月後、新政府軍は鳥羽伏見の戦いで幕府軍を打ち破る。

 この戦いの最中、慶喜は味方の兵士を残して幕府の戦艦で江戸まで逃げ帰った。「錦の御旗」を掲げた新政府軍との戦いを避けるためだったとされる。勝静も同乗して江戸に戻り、いったんは謹慎したが、最後は海軍副総裁の榎本武揚らと一緒に函館・五稜郭に立てこもって新政府軍と対峙(たいじ)した。

 ◆五稜郭で新政府軍と対峙

 すでに幕府には将来がないことを見抜いていた方谷は、勝静が幕閣として江戸で仕事をすることに賛成していなかったようだ。勝静に請われた方谷は顧問として江戸でも勤務したが、勝静が老中に抜擢された後、途中で備中松山藩に戻っている。あくまでも幕府に奉じた勝静に対し、方谷は領地や領民が心配だったのだろう。

 ただ、函館にいた勝静を外国商船を使って半ば強引に連れ戻したのも方谷の采配だった。最後まで主君を見捨てることはなかった。勝静は新政府に自首して禁錮処分を受けた後、赦免されたが、故郷で方谷と涙の再会を果たすのは函館を出てから6年後のことだ。

 幕末期における勝静の役割をどうみるか。高梁市文化交流館の西雄大さんは「勝静は方谷などの優秀な人物を起用することに躊躇(ちゅうちょ)がなかった」と評価する。幕府の要職を罷免された勝海舟を呼び戻し、最後の陸軍総裁に起用したのも勝静の人材登用術だ。その海舟は新政府軍の西郷隆盛と渡り合い、江戸城の無血開城で江戸の町を戦火から救う役割を果たした。

 一方、幕府と最後まで行動をともにした勝静は朝敵とみなされた。鳥羽伏見の戦いの後、地元の備中松山城は新政府の命令を受けた岡山藩の征討軍に囲まれた。そのとき、勝静に代わって藩の運営を任されていた方谷がぎりぎりの交渉で開城に踏み切り、城下の混乱を回避した。

 ◆優秀な人材を躊躇なく登用

 板倉家19代当主の板倉重徳さんは「勝静公は幕末という厳しい時代の中で、徳川家に対する忠義を最後まで尽くした」と振り返る。都内の大手百貨店に勤務する板倉さんは最近、方谷に関するシンポジウムなどに呼ばれる機会が増えた。方谷を登用した勝静をめぐる再評価の動きといえる。

 勝静は晩年、上野東照宮の宮司に就いた。徳川幕府を開いた家康を祀(まつ)る東照宮に仕えることは、幕府に殉じた勝静にとっては無上の喜びだったはずだ。その勝静が眠る東京都文京区の吉祥寺には五稜郭でともに戦い、後の明治政府でも活躍した武揚の墓所などもある。勝静の墓は周囲に比べて遠慮したかのように小ぶりである。(論説委員・井伊重之 いい しげゆき)