“トビウオ”とその時代(11)本来の泳ぎではないことは自分が一番分かっていた…「引退」が浮かぶ敗戦

オリンピズム

 「引退」という文字が古橋広之進の脳裏から離れなくなるのは、南米遠征から帰国してからだった。1950(昭和25)年8月には戦後初の日米対抗が神宮プールで開催されたが、体調が十分でない古橋は1500メートルへの出場を取りやめ、200、400、800メートル自由形に出場。何とか3種目とも勝利を収めたが、大阪に舞台を移した対抗戦で、46年の国民体育大会以来の敗北を喫した。

 元の動きに戻そうと人一倍、練習に熱を入れたが、「練習すればするだけ疲れがたまっていく。レースに勝っても本来の泳ぎではないことは自分が一番分かっていた」

 「体調が十分でないのに期待は大きく、いろんなところに引っ張り出されていた。出なくともいい試合にも出ざるを得ず、体はボロボロだったはずだ」。古橋の様子に、橋爪四郎は心を砕いていた。

 51年4月に就職。古橋自身も「次の五輪といっても3番に入る自信も持てなかった。大学卒業を機に水泳は辞(や)めようと思っていたし、父親や妹、弟を浜松から引き取ることも決めていた」。それでも辞められなかった。「五輪は来年なんだから」と。

 ベルリン五輪金メダリストで当時、毎日新聞記者だった葉室鉄夫は「キックが変則で、左右同じように打たない。こうした変則泳法は、いったん崩れると元に戻すのは大変なんだ」と指摘。本来の泳ぎを取り戻せないまま、メダルへの重圧だけが増していく。古橋が日本にとって戦後初参加となる五輪、52年ヘルシンキ大会を迎えたのはそんな状況でのことだった。

 期待の大きさは当時の報道にも表れている。当時の新旧4人のアナウンサーの対談集が『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史』に収められている。

 《「水上は古橋の出る種目は全部優勝すると思うんです。400と1500、アメリカのコンノがどうのとか、ムーアがどうのとか言ってますけれども、古橋が出たら勝つ。それから800のリレー、この3つは確実に日本が勝つと思いますね」(飯田次男)

 「古橋が400で優勝したら、1500は完全に日本が優勝するね。その勢いに乗じて800も勝つな。ほかの連中の気持ちが違ってくるから」(河西三省)》

 古橋に対する絶対の信頼がうかがえる。しかし、金メダル確実だったロンドン大会から4年。その歳月はアスリートにとっては想像以上に長いものなのだろう。スポーツ医科学やトレーニング方法がまだ確立されていない時代とあって、実際にメダリストたちは若かった。例えば32年ロス五輪。金メダルの北村久寿雄は14歳、宮崎康二は15歳。銀メダルの小池礼三は16歳、牧野正蔵は17歳での表彰台だった。一方、古橋はまもなく24歳になろうとしていた。南米遠征でかかったアメーバ赤痢の影響を抱えたままで-。=敬称略(金子昌世)