絵解き 伝統の「語り芸」に酔った 清湖口敏

国語逍遥(88)

 大阪市内の小学校に通った私は6年の夏、林間学舎で初めて高野山(和歌山県)に登った。そこでお坊さんから聴いた「苅萱道心(かるかやどうしん)と石童丸(いしどうまる)」の物語は、あまりにも悲しくて、目にたまった涙を友達に気取(けど)られまいと慌てたことを、今でもはっきりと覚えている。

 その林間学舎から半世紀余を経たこの夏、同じ物語を再び聴く機会があった。信濃(長野県)の善光寺にほど近い西光寺の副住職夫人、竹澤環江さんによる「絵解き」の“出張”口演が、東京都内の大学ホールで催されたのである。

 絵解きとは、高僧の絵伝や寺社縁起絵、地獄絵などの掛幅(かけふく)絵を聴衆に示し、絵の内容や意味を解説するものである。物語と絵、語りの3つが一体となった、さしずめ視聴覚説教といったところだろうか。もともとは仏教教化(きょうけ)が目的だったが、鎌倉時代あたりから芸能化していき、江戸の頃には庶民の娯楽の一つでもあったという。

 この日、竹澤さんは2幅の「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」に描かれた計27の場面を、お羽根指し(先端に羽根のついた棒)で次々と指し示しながら、折り目正しく、熱のこもった絵解きを展開していった。よく知られた話ながら、念のため、西光寺が発行する『絵解き 苅萱道心と石童丸』の「台本」を基に粗筋を紹介しておきたい。

 世の無常を観じて筑前国(福岡県)の所領も、身重の妻、子も捨てて出家した父(苅萱道心)。後に生まれた石童丸は13歳の春、父恋しさに母とともに旅立ち、父を尋ね歩く。やがて高野山の麓まで来たものの、高野山は女人禁制。石童丸は母を麓の宿に残し、ひとり山に入っていく。

 奥の院の無明の橋で一人の僧と出会う。この僧こそ父道心なのだが、石童丸は父の顔を知らない。一方、目の前の石童丸をわが子と知った道心は涙で頬をぬらす。「お目に涙が…。もしや私の父上さまでは…」。父ではないかと必死に迫る石童丸。しかし道心は仏道修行の身のゆえ父とは名乗れず、そなたの父は去年亡くなったと教える。涙ながらに山を下りた石童丸を待っていたのは、息を引き取ったばかりの母だった。

 悲しみに暮れて帰郷すると、姉もまた、この世の人ではなくなっていた。天涯孤独となった石童丸は再び高野山へ。道心を師に修行すること34年。しかし父子が一堂にあっては何かと障りも多く、道心は善光寺如来のお告げと言って信濃の善光寺に旅立ち、当地で往生する。道心の往生を悟った石童丸は、早速信濃に赴き念仏に励む。そして道心の死から2年後の同じ8月24日、とうとう親子の名乗りを交わさぬままに石童丸も亡くなる…。

 「高野山が女人禁制でなかったら、石童丸も母も父に会えたであろうに」。子供心に突き刺さった悲しみが、竹澤さんの絵解きを聴くうちに蘇(よみがえ)ってくるような気がした。ただ、今の私はむろん子供ではなく、同時に、絵解きというすばらしい「語り」に陶然と酔うこともできたのである。

 〈これが母子(おやこ)今生の別れになろうとは、神ならぬ身には知るよしもなく、心細道ただ一人村過ぎ川渡り谷越えてはるばる登れば、日は入合(いりあ)いの不動坂…〉

 母を残して石童丸が山を登る場面だ。父子の別れでは〈親は子を知り、子は親を知らず。愛(いと)し吾子(わがこ)を前にして、名乗れぬ父の悲しみは、泣いて血を吐くほとゝぎす〉。台本を声に出して読んでみると、詞章の洗練された修辞、巧みなリズムが魂にまで響くようだ。決して難解ではなく、かといって俗に流れてもいない。それを抑揚豊かに朗誦(ろうしょう)する絵解きは明らかに、説経節や義太夫節、謡曲、講談、浪曲といった語り芸と同じ系譜にあることが分かる。

 竹澤さんは「苅萱~」のほか「十王巡り」「六道地獄絵」の絵解きも演じた。こちらは「苅萱~」と違って軽妙かつ当意即妙の趣があり、面白く聴ける。三途(さんず)の川を渡った亡者が裁判で生前の悪行を言い立てられると、「記憶にございません」…。どこかで聞いたふうな弁解が会場の笑いを誘う。世相を斬る饒舌(じょうぜつ)も「苅萱~」にはなかったもので、それぞれの絵解きの味比べもまた一興か。

 明治の中頃までは盛んだった西光寺の絵解きは、一時期途絶えたという。復活させたのが竹澤さんの義母にあたる西光寺住職夫人、竹澤繁子さんで、昭和40年代末の頃だったとか。平成19年からは繁子さんの指導のもと、環江さんが絵解きを継承し、一昨年にはパリの大学でも口演したというから、頼もしい。

 絵解きと同じく物語、絵、語りの3つで構成される紙芝居も、今では日本独自の文化として海外にも普及し始め、作品は多くの言語に翻訳されている。演者の声や演出が臨場感をいやが上にも高め、物語への共感が聴衆の間に広がっていく。

 絵解きや紙芝居のこのような醍醐味(だいごみ)に、日本人自身がもっと注目してもよいのではなかろうか。

 私は今、遠いあの日の林間学舎を思い出しながら、ふと、苅萱の話を聴かせてくれたお坊さんは、もしや、道心その人ではなかったかと、幻想めいたことを考えてみた。

 あすは「8月24日」、苅萱道心・石童丸父子の“祥月命日”である。