3年後、2度目の東京五輪をどう伝えるのか 別府育郎

スポーツ茶論
東京五輪(左)とパラリンピックのエンブレム「組市松紋」(「Tokyo 2020」提供)

 《鐘が鳴る。鳴りわたる。やがて電子音楽のひびきとなって、十万人の国立競技場から晴れあがった秋空にこだまする。第十八回オリンピック東京大会のトビラをひらく音だ。(中略)思えば“東京への道”は遠かった。昭和五年、東京市がオリンピック招致を決意してから足かけ三十五年。あれいらい、わたくしたち日本人の胸の中で、消えつ現われつしてきた幻想の聖火は、きょう、まぎれもない現実のほのおとなって、神宮の空にもえる》

 昭和39年10月10日、産経新聞夕刊1面の書き出しである。執筆は石井英夫、当時31歳。後に35年の長きにわたって朝刊1面コラム「産経抄」を担当する。身内褒めであり、大先輩に失礼でもあるが、情景と空気を伝えて見事である。

 翌朝サンケイスポーツの1面には当時の運動部長、北川貞二郎がこう書いた。

 《“この日”を迎えるまで、われわれ日本人は、どれだけの風雪を越えてきたことか-。そしてこのフィールドにも、どんなに悲壮な歴史が秘められていることか-。

 昭和十八年、第二次世界大戦の戦局急をつげた十一月のある日を思いだす。ほとんどの学生が、学業なかばで動員となった。戦争目的も理解しえないまま、わたくしも赤ダスキをかけた。明確であったのは「死なねばならぬ」ことだけである。世にもあわれな門出を国民はここで盛大に送ってくれた。それは、いま目の前をあるく日本の青年たちへの「メダルの期待」に数倍する期待であった。重苦しく、やりきれぬ“期待”をになって、わたくしは角帽姿にゲートルをまき、銃をかついで、このフィールドを行進した。あのときわたくしのふんだ土のひとかけらぐらいは、いまの美しいアンツーカーの底に、残っているにちがいない》

 早大ボート部で活躍した北川は、出陣学徒壮行会を経て、出征先の中国で負傷した。思えば東京五輪の開催は、終戦から19年しかたっていない。その後の長い年月を考えると、あまりに短い。20年前なんて、ついこの間のことのように思えることもある。

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 1月末まで、下段で「1964東京」と題する連載記事を担当していた。その関係で、当時の紙面に触れる機会が多かった。

 改めて驚かされたのは、新聞の元気であり、編集の大胆さだった。例えばアベベが優勝し、円谷幸吉が銅メダルを獲得したマラソンでは、42・195キロを見開きで10コマに区切り、それぞれをアベベや円谷が語り、長距離界の先駆者、金栗四三と「人間機関車」ザトペックが解説する。

 日々のハイライトはサトウハチローが詩に切り取り、例えば陸上100メートルはこう詠んだ。《ピストルの音がした時は/手足のはえた風となり/ゴールにつきささる時は光にかわる/これが百メートル競走だ》

 生き生きとした競技の描写のみならず、世相も伝えていちいちが面白く、読み飽きることがない。

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 3年後、再び東京五輪が開催される。新国立競技場の建設問題やエンブレムの白紙撤回、競技会場の見直しなど、後ろ向きのニュースばかりが目立ち、どんな大会になるのか心配にもなるが、人ごとではない。

 2度目の東京五輪をどう伝えるのか。新聞にとっても正念場だろう。あの時代にできて、今できないことは。今こそできるものは何か。残された考える時間は、かなり少ない。