岡田阪神研究(4完)

岡田と掛布 両雄並び立たずの球運

イベントでふざけ合う掛布雅之(左)と岡田彰布=2015年8月、東京ドーム
イベントでふざけ合う掛布雅之(左)と岡田彰布=2015年8月、東京ドーム

優勝が決まった14日夜、杉山健博オーナーは「岡田(彰布)監督に頑張っていただくというのが、当たり前じゃないかなと思っている」と語り、岡田監督も「来年はやるわ」と答え、来季の続投が決まった。

就任1年目に圧倒的な強さで優勝し、今や岡田監督は名将として評価されるが、38年前の1985年(昭和60年)の球団創設初の日本一を知るオールドファンはタイガースの4番は掛布雅之。バースは3番で岡田は5番…。チームの看板は掛布だった。岡田は阪神で2度の監督で2度のリーグ優勝を飾ったのに、掛布には一度も阪神監督の声がかからない。2人の〝球運〟はどこでどう分かれたのか-。

新人王VS.ミスタータイガース

岡田が阪神に入団したのは79年のドラフト会議。6球団が1位指名で競合し、当時の岡崎代表が引き当てた。地元の北陽高から早大に進学し、東京六大学で活躍した岡田は入団したときから将来の幹部候補生だ。ルーキーイヤーの80年には打率2割9分、18本塁打、54打点の活躍で新人王を獲得した。

この頃、チーム内の雰囲気はどうなのか…。阪神OBの話を聞くと「チームの中心は掛布だった。ロッカールームでも若い選手を叱咤(しった)激励するのはカケ。彼の一言で平田や木戸は直立不動になった」「掛布もいたし、真弓も山本和も佐野も川藤もいた。猛者がそろう先輩たちが監督や球団に物を言い、彼らの後ろで岡田は守られている感じだった」

掛布の実績は抜群だった。本塁打王3回、打点王1回、ベストナイン7回。千葉・習志野高からテスト生同然のドラフト6位で入団し、猛練習で主力選手に駆け上がったプロセスはファンを虜(とりこ)にした。「ミスタータイガース」の称号を与えた。

ところが、掛布は86年4月の中日戦(ナゴヤ球場)で手首に死球を受けて骨折。その後、打球の処理で右肩を負傷したり左親指を骨折するなど故障の連鎖…。翌年には春先に飲酒運転で逮捕されたことが発覚し、グラウンドでも腰痛で成績が低迷。そして、88年の9月には現役引退を表明した。まだ33歳だった。球団や監督に対して物を言い、矢面に立っていても、成績の裏付けがあればいい。しかし、力の衰えは立場を弱めてしまう。

引退後、指導者へ

掛布の引退に続き、山本和や川藤、佐野ら先輩たちは次々と去っていった。岡田はチームリーダーに…。しかし、岡田にも大きな曲がり角がやってくる。92年4月25日の中日戦(ナゴヤ球場)の5回一死満塁で打順は7番に降格していた岡田に…。すると中村勝広監督は「代打・亀山」を告げた。前日まで打率1割8分5厘と打撃不振だった岡田だったが、代打を告げられたのはプロ13年目にして初めて。若い頃は早大の先輩後輩として良好な関係だった中村監督とも険悪に…。93年オフには阪神を退団。仰木彬(あきら)監督が手を差し伸べたオリックスに移籍した。江夏や田淵、掛布のたどったタイガースのスター選手の〝いつか来た道〟だったのかもしれない。

試合前に談笑する掛布雅之(右端)と岡田彰布(右から2番目)=1985年10月
試合前に談笑する掛布雅之(右端)と岡田彰布(右から2番目)=1985年10月

しかし、ここから岡田は違った。オリックスで現役引退(95年)すると2軍の指導者になり、98年には2軍打撃コーチで古巣に復帰する。当時の阪神・久万(くま)俊二郎オーナーは岡田を「ウチの子です」といい、阪神に復帰させるように強く促した。東京六大学のスターだった岡田をいずれ監督にしたい…という久万オーナーの願望は紆余(うよ)曲折を経ても変わらなかった。岡田は指導者としてキャリアを積み、2004年に監督に就任し翌年にはJFKを構築し、リーグ優勝を飾った。

掛布にもあった監督就任の可能性

実は掛布には過去に一度だけ阪神監督就任の芽が膨らみかけたときがある。14年の暮れだ。当時の坂井オーナーはシーズン終盤に和田監督の退任を決意し、南球団社長に「次は岡田で準備してくれ」と指示を出した。ところが、チームは最終的に2位に食い込み、クライマックス・シリーズを勝ち抜いて日本シリーズに進出。坂井オーナーは岡田招聘(しょうへい)案を引っ込め、和田監督続投を決めた。

その直後のことだ。中村勝広GMは球団内部で「掛布監督を実現したい。どうにかカケを監督にできないものか」と持ちかけた。1992年の代打・亀山事件以来、中村GMと岡田は険悪な関係だった。坂井オーナーが「岡田招聘」を指示したときには「それなら俺は辞めるしかない」と言い放った。掛布監督の実現は岡田再登板の芽を摘む妙手になる…。

阪急・阪神の経営統合で球運は岡田に

しかし、2006年に阪急阪神が経営統合し、タイガースは阪急阪神ホールディングス(HD)のエンタテインメント事業に属していた。阪急側には岡田待望論はあっても掛布の名前はない。角和夫代表取締役会長兼グループCEO(最高経営責任者)の意中の人は岡田ただ一人。掛布の入る隙間はなかった。中村GMは15年9月23日、遠征先の東京都内のホテルで急逝した。まだ66歳だった。球団内で唯一の推薦者を失った。久万と角。2人のトップ経営者の選択はいずれも「岡田」だった。ミスタータイガースと阪神監督の座には深い溝があった。

18年ぶりの優勝を果たしたことで岡田はファンの心もつかんだ。そして岡田は阪神球団に盤石な基盤を築いたと言ってもいいだろう。

角会長は「岡田さんは監督を卒業した後も、ゼネラルマネジャーとかいろんなポストはある。やっぱり、タイガース一筋の人がやるのと、外から来た人がやるのとは違うわけです。ファンから見てもね」とした上で、「(監督を)辞めたあともね、何らかの形でタイガースにかかわっていただいたらいいと思うんですけどね」と話した。

この連載は、植村徹也、嶋田知加子、丸山和郎が担当しました。

監督復帰、阪急トップの決断だったのイメージ


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