記憶とは不思議なもので、ガリ版印刷のあの独特のインクの臭いが一瞬鼻先をかすめた。ご存じの方も多いだろう。ろうを塗った原紙を鉄筆でガリガリと削り、ローラーでインクを乗せて、わら半紙に印刷したあれである。昔はどこの学校にもあったが、コピー機の普及で姿を消した。
▼懐かしい情景を呼び覚ましたのは、大阪本社版夕刊の読書投稿欄「ビブリオエッセー」(7月4日付)にこんな話が載っていたからだ。筆者は大阪府茨木市の浅野素雄さん(92)。終戦直後の昭和20年9月のことだった。
▼旧制中学の授業が再開されたが教科書がそろわない。そこで3年生の国語(古文)の時間に配られたのが、手製のプリント「風姿花伝」だった。世阿弥によって書かれた室町時代の能楽書だ。子供が学ぶ機会を逃すまいと必死だった教師の熱意と工夫がしのばれる。どこの教育現場も似たようなものだったろう。