「伝統演劇の冒険家」孤軍奮闘で切り開いたスーパー歌舞伎 市川猿翁さん

市川猿翁さん
市川猿翁さん

「座して死ぬより戦って死にたい」-。13日、不整脈のため83歳で亡くなった市川猿翁さんはいつもそう言い放ち、病に倒れた後も不屈の闘志で走り続けた。

昭和38年、祖父の二代目市川猿之助さん(後の初代市川猿翁)の名跡を三代目として襲名したが、大きな不幸に見舞われる。この年、祖父と父・三代目段四郎さんを相次いで亡くした。後ろ盾のいない〝劇界の孤児〟には、これといった役が回ってこなかった。

こうした場合、普通なら有力な大幹部のところに身を寄せて役をもらうが、〝寄らば大樹の陰〟的な生き方を嫌い、どこにも属さずに独立独歩で己が道を開くことを決める。

41年、自主公演の勉強会「春秋会」を旗揚げ。以後、江戸歌舞伎の復活を提唱し、古典の新演出を始めた。第2回目に通し狂言「金門五三桐」では2役早替りをみせた。

43年、国立劇場「義経千本桜・四の切」で狐忠信が宙乗りをする演出を取り入れて評判となった。46年7月の歌舞伎座の猿之助百年記念興行などの成功により、次第に〝猿之助奮闘公演〟と銘打たれた興行が増えていった。

48年、ストーリー、スピード、スペクタクルの〝3S〟を旗印に、本興行では初めての7役早替り「加賀見山再岩藤」を上演。襲名から10年の苦労を吹き飛ばすように、男と女、善と悪が入り乱れ、岩藤の亡霊の宙乗りまであって客席を大いに沸かせた。猿翁さんは座頭の位置に付き、同時に関西での歌舞伎興行にも弾みをつけた。

当初、早替りは「金太郎飴」、宙乗りは「サーカス」などといった批判も伝統を重んじる劇評家らの間では飛び交ったが、意に介さなかった。

54年初演の「伊達の十役」では仁木弾正から乳母の政岡までの10役を一人で演じ、約4時間に及ぶ上演中、計42回もの早変わりを披露。「獨道中五十三驛」では18役にまでエスカレートした。

通し狂言「奥州安達原」では長らく上演が絶えていた場を映像で復活、古典を現代に生かした舞台を作り上げた。

挑戦は新しい路線を開拓する。61年、哲学者の梅原猛さんに「シェークスピアのような哲学的な深みのあるせりふに、ワーグナーのオペラのような壮大なスケールと兼ね備えた作品を書いてほしい」と依頼した。

その難しい注文に応えるように書き下ろされたのがスーパー歌舞伎第1弾「ヤマトタケル」だった。「私は幼い時から普通(つね)の人々が追わぬものを必死に追いかけた」という劇中のヤマトタケルのせりふは、猿之助さん自身の生き方と重なった。

豪華な衣装、現代語のせりふ、わかりやすいストーリー、洋楽の導入など画期的な演出もあって大ヒットし、上演を重ねた。スーパー歌舞伎は「オグリ」など全9作を数える。

もう一つの大きな功績は「猿之助軍団」と呼ばれる一座「二十一世紀歌舞伎組」を作り、市川右近さんをはじめ、門閥外の市川笑也さんや市川猿弥さんらを育成したことだ。

演出家の蜷川幸雄さんは以前、猿之助さんを「『演劇という病』にかかっている病人」「歌舞伎における遺伝仕組み替え作業をやっている」「伝統演劇の冒険家」と表した。

しかし平成15年、全力で孤軍奮闘し続けた猿翁さんは力尽きたように脳梗塞で倒れる。もう舞台上でその姿を見られないと思われていたが、24年6月、東京・新橋演舞場で、猿翁さんは二代目猿翁の名跡を襲名し、「口上」に出演。7月には「楼門五三桐」の真柴久吉役で舞台復帰も果たした。

《打って出るには狂気と冒険の破天荒な企画が必要だ》(猿之助語録)

狂気にも似た芝居作りで歌舞伎界に新風を巻き起こし、作り上げた歌舞伎の数々は広く大衆に親しまれ、愛されている。

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