「丈夫そうだな」。明大ラグビー部のグラウンドと合宿所は東京・八幡山の住宅街の一角にある。秋田から上京した吉田義人は、大学生活の多くを過ごすことになる建物を前にしたときの印象をそう語る。
雪の早明戦が行われた1987年、早大は2月から3月にかけ、OBと現役が入り交じった「オール早稲田」でアイルランドに遠征し、ダブリン大などと計5試合を実施した。これに対し「オール明治」は3月から4月にかけ、ニュージーランド(NZ)に遠征し、オークランド大などと計7試合を行っている。
『明治大学体育会ラグビー部部史(1923-1988)』(明治大学体育会ラグビー部、北島忠治)によると、明大のNZ遠征は、監督である北島の「FWプレーの本場、NZに4年に1度は遠征して、学生たちにハダで吸収させ明大ラグビー部を充実させたい」との方針のもとで行われ、この年の遠征は83年以来4年ぶり4度目のことだった。
その間に八幡山では約2週間の新人合宿が行われ、秋田工高出身の吉田ら新1年生が汗を流した。そして終了するころには何人かが部を去っていた。
来るべき新年度に向け、上級生との体力差を埋めるべく激しい練習が行われ、音を上げたのかと思いきや、そうではない。川上健司は「結局、合宿生活になじめなくてやめる。厳しいですからね、やっぱり。上下関係があって」と指摘する。
西原在日(ざいひ)=大阪工大高、現・常翔学園高=は、多くの試合が組まれたことを覚えている。当時、八幡山のグラウンドは周辺の高校ラグビー部などに開放されていたこともあり、高校生らとの練習試合が行われた。部内マッチもあった。練習では「とにかくよく走った」。しごきのような面もあり、「試練の場」だったのは確かだ。
それでも、紫紺のジャージーに憧れて名門ラグビー部に足を踏み入れた多くの腕力自慢、豪脚自慢にとって、それらの練習は夢を断念させるほどのものではなかった。むしろ、共同生活のしきたりの方がハードルは高かった。
2階建ての合宿所は各学年2人ずつの8人部屋が中心だったが、部内の独特のルールがあり、1年生には1年生の役割があった。時代は昭和だった
例えば-。1年生は上級生(3、4年生)に話しかけてはならないという決まりがあった。
当時、外部からの連絡手段は、食堂にあった電話が主だった。1年生の電話番は、鳴ったら3回以内に取らなければならず、しかも、相手が聞き取れようが聞き取れまいが、とにかく大きな声で素早く「こちら明治大学ラグビー部合宿所です」と言わなくてはならない決まりだったという。
先輩に電話がかかってきた場合、それを伝えようにもこちらから先輩に話しかけることはできない。先輩が寝ている場合はさらに難儀だった。ダイレクトに体をゆすって起こすようなことは許されず、(風を送るなど)気配を感じさせるような起こし方をしなければならなかった。「めちゃめちゃですよね」。吉田はいまでもあきれたように当時を振り返る
試合で着用するジャージー洗いもまた、1年生の仕事で、少しの汚れも残さずにきれいにすることが求められた。
洗濯機で洗うだけでは事足りず、入念に手洗いする必要があった。基本的にジャージーを洗っている姿を先輩に見られてはならなかった。必然的に深夜が洗濯の時間になった。
どのくらいの時間がかかるかは、ポジションや試合日の天候によって決まった。雨の日のFWのジャージーは汚れがひどく、時間がかかった。仕上がるまでに1週間かかることもあったという。
メンバー入りすると、自分のジャージーを担当することになるので負担が減った。1年目からリザーブ入りすることが多かった西原は「自分が着るジャージーなので多少汚れがあっても誰にも気づかれないし、アップのときも極力汚れないようにやっていましたね」と明かす。
丹羽政彦(北海道・羽幌高)が「時代遅れだとずっと思っていた」と話し、吉田が「非効率」と表現したルールは、この87年入学組が最上級生になると見直されたが、この年はまだ残っていた。