ほくそ笑む《半分死んだ人》
車いすに座って部屋の中から裏庭を眺める。見捨てられたような庭に初夏の日差しが降り注いでいる。
前回の本欄で右足首骨折の顚末(てんまつ)を記したが、今回はその続きを書く。骨折による入院で2週間も手入れのできなかった庭は、植物がもっとも旺盛に繁茂する時期だっただけに、無秩序に向かって爆走中だ。
ちょっと待て。無秩序だって? それは私の主観にすぎない。それこそが自然の秩序なのだろう、と思い直す。近年の気候の獰猛(どうもう)化とは、貪欲な人間によって毀損(きそん)された自然の秩序を、自然みずからが回復しようとする修正作用ではないかと思う。
海のそばに暮らしながら砂浜を散歩できないいま、音楽を聴き、本を読み、酒を飲み、簡単な料理を作って食らいながら過ごしている。散歩ができない以外は、いつも通りと言えぬこともない。妻の名誉のために書いておくと、東京で仕事をしている彼女は、週末だけ外房の家にやってくる。そんな暮らし方を私自身が選んだのである。
モンテーニュは自身の健康管理をめぐって、第3巻第13章「経験について」にこう記している。
《わたしが何よりも堅く信ずるところは、「こんなに長い間慣れ親しんで来た習慣によって害をこうむるはずはないであろう」ということである》(関根秀雄訳)
この確信は、静養中の私の指針であり、「人間社会に革命など絶対に不要」とするモンテーニュの保守思想にそのままつながるものでもある。
車いす生活を余儀なくされ、車の運転もできず、買い物にも行けなくなったいま、自分がますます浮世離れしてゆくのを感じている。私が私淑するコラムニストの山本夏彦さんに《半分死んだ人》という表現がある。《半分死んだ人》とは、死んだ人とばかり対話する人間のことだ。かみ砕いていえば、とうの昔に亡くなった人が書いた本との対話を生きるよすがとする人間のことである。「いよいよ《半分死んだ人》に近づいてきた」と、私はほくそ笑むのである。
言葉をつなぐ倫理的こだわり
こんな浮世離れした、半分死んだ老人にも、ひとしく季節はめぐってくる。蒸し暑くなってきた。まもなく夏至だ。夏至と聞くと反射的に赤ワインと詩人の西脇順三郎さんを連想してしまう。明らかに昭和60年に刊行された田村隆一さんの詩集『ワインレッドの夏至』の影響だ。
田村さんは57年に亡くなった西脇さんを「ワインレッドの夏至」でこう追悼する。
《「また脊髄の中を/夏至が昇ってきた」/最晩年の詩集「人類」のなかで/ワインレッドの詩人は夏至を予感しながら/野の草木にやどる/精霊と化す》
昭和13年、早稲田の古本屋で15歳の田村さんは西脇さんの詩集『アムバルワリア』に遭遇。田村さんは「回想の西脇順三郎 人類の夏至」にこう書く。長いがそのまま引用しよう。
《青年時には、だれにだって悪魔的な「瞬間」が襲いかかるものだ。/表紙は、人造ゴムのような感触で、色はワイン・レッド。グレーのコットン紙に4号活字で組まれた詩を読んでいると、実際に表紙のワイン・レッドの染料が手のひらに乗りうつって、ぼくの若い魂まで陶酔させるのである。/詩の陶酔は、アルコールとちがって精神を覚醒させるのだ。この詩集は、ギリシャ的抒情詩と拉典(ラテン)哀歌とからなる「Le Monde Ancien」と、近代的失楽園を記述的に歌った「Le Monde Moderne」の二部から成っていて、ちょうど1枚の銀貨のように、古代的歓喜と近代的憂鬱とが表裏になっている》
日本的な湿った詩情とは無縁の、地中海的明晰(めいせき)さ、宝石のような硬質な輝きを持ったワインレッドの詩集は先の大戦で灰となり、その灰の中から田村さんの青春は始まる。ただ、その前に田村さんは決定的な体験をする。兵士として先の大戦を生きるという。
詩人であり思想家でもある吉本隆明さんは『詩の力』の中で、田村さんとそのグループである「荒地」について次のように論じている。
《『荒地』のグループは戦争に対して、強い倫理的こだわりを持っている世代だった。このため、日本の詩の中で初めて本格的な倫理性、ヒューマニズムを導入した》
そう、田村さんの詩の特長は、言葉を、イメージにもたれることなく、倫理性によってつないでゆくところにある。29年に発表された「四千の日と夜」はこう始まる。
《一篇の詩が生れるためには、/われわれは殺さなければならない/多くのものを殺さなければならない/多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ》
そしてこう閉じられる。
《一篇の詩を生むためには、/われわれはいとしいものを殺さなければならない/これは死者を甦らせるただひとつの道であり、われわれはその道を行かなければならない》
「四千の日と夜」とは、言うまでもなく戦後10年の暗喩である。
詩の言葉に言葉を失う
車いすに座って田村さんの詩をあれこれ読み返す。私の理解の及ばない作品も多いが、たとえば《わたしの屍体(したい)に手を触れるな》と命じる「立棺」、《言葉なんかおぼえるんじゃなかった》と嘆く「帰途」、《ぼくの船には櫂(かい)がない/むろんエンジンだってついてない/帆はやぶれ櫂は流れて/二日酔い》とつぶやく「ぼくの遊覧船」などに触れると、比喩ではなく、本当に言葉を失い、慄然としてしまう。富士に月見草ではないが、車いすに田村隆一はよく似合う。
いつまでも車いすの白昼夢に浸ることなく、そろそろ現実に戻ろうか。ためしにテレビをつけてみる。ためしにネットの情報を眺めてみる。聞こえてくるのも、目にはいってくるのも、日本語らしいが、ほとんど心に届かない。そもそも流布する情報の9割以上は、生きてゆくうえで無用なもののように感じられる。もはや文春砲にもほとんど興味がわかない。写真週刊誌「フォーカス」を発案した新潮社の伝説的編集者、斎藤十一さんは部下に向かって「君たち、人殺しの顔を見たくはないのか」と言ったそうだが、いまの私なら「別に」と答えるだろう。これは《半分死んだ人》特有の病状なのかもしれないが、それならそれでかまわない。
倫理的こだわりのない、カネを稼ぐための道具、目立つための玩具となり果てた言葉が洪水のように押し寄せるいま、自分の精神の均衡を保つには、これまで以上に、死んだ人の残した言葉と対話を続けるしかない。そんな《半分死んだ人》でも、ひょっとすると、社会のお役に立てることがあるかもしれぬ、と思いながら。
ちなみに、田村隆一さんが生きていたら今年でちょうど100歳だ。