東武東上線の志木駅(埼玉県新座市)でタクシー運転手に「柳(やな)瀬(せ)荘へ」といっても知らないという。「鬼が棲(す)んでいた」とつぶやけば怪訝(けげん)な顔だ。とりあえず、地図の上では近いはずの跡見学園女子大学の正門前に向かった。
驚いたことに、大学の受付で聞いても分からない。「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門の柳瀬荘には、重要文化財の「黄林閣」があるはずなのに。
察するに、柳瀬荘になじみがないのは、寄贈先が地元の埼玉県所沢市でなく、東京国立博物館であったからではないか。公開日は木曜日に限られるし、看板も文字がはげ落ちて識別できない。どこかの政権が、「予算の仕分け」とかで、むやみに歳出カットした結果だと後に聞いた。
取材を勧めてくれた先輩記者の手紙にあった道案内と、地図を頼りに歩きだす。遠くに開発を拒絶するような森が見えてきて、ようやく確信が持てた。
柳瀬荘は母屋にあたる「黄林閣」、数寄屋風書院造りの「斜月亭」、そして茶室の「久木(きゅうぼく)庵」からなる。
松永が九州、中部が中心の東邦電力を率いていたころ、訪米先のGE(ゼネラル・エレクトリック)社長から別荘に招かれて感服し、帰国するとすぐに古い田舎家と候補地を物色した。
送電線の用地を調べていた部下に「山ごと買いたい」と伝え、柳瀬村(現在の所沢市東部)の松林を手に入れた。当初は1万5000坪という広大な土地で、ここに昭和5年、東京都東久留米市にあった大庄屋の住居を移築した。
黄林閣は、江戸・天保期の屋敷で、かやぶき屋根の天井はどこまでも高く、梁(はり)はとてつもなく太い。管理人の針生清美さんによると、第2木曜日に地元のボランティアにお願いし、かやぶき屋根を保持するため土間で燻蒸(くんじょう)をするという。黄林閣と渡り廊下でつながる斜月亭は、昭和13年から東大寺や当麻寺などの古材を運んで建てたというから剛毅(ごうき)だ。庭から見える琳派(りんぱ)風の襖絵(ふすまえ)が、侘(わ)びた美しさを見せていた。
その先にある茶室の久木庵は満鉄総裁を務めた山本条太郎が亡くなって鎌倉の邸宅から移築した。元は江戸初期の越後の武家の茶室だったもので、2度目の移築を果たした。
松永は実業家であると同時に茶人としても名高く、60歳から茶道をたしなんで益田鈍翁など当代一流の茶人、書や陶芸の北大路魯山人とも交流があった。しかし、松永は商売下手の魯山人が、カネの無心にやってくる粗忽(そこつ)さに嫌気して、出入り差し止めにした逸話が残る。「松永も粗忽ですけどね」とは、針生さんの見立てだ。
長崎県出身の松永は、石炭商から転じて電力事業に情熱を注いだ。戦時中に、電力の国家管理に抵抗して軍部に敗れる。国策会社の日本発送電の発足とともに、柳瀬荘に引きこもり、自らを「耳庵」と号して茶道三昧の日々を過ごした。
終戦直後の混乱した時代が、再び松永を中央の舞台に引き戻す。戦後復興のカギを握るのは安定した電力の供給だったからだ。首相の吉田茂は、「大ナタを振るえる人物がいるかね」と考えた。
日本発送電を分割民営化して、効率的な経営体質に変えなければならない。軍部を公然と非難した松永は吉田好みだった。74歳の松永は昭和24年、再び第一線に復帰した。
その剛腕ぶりは、「官吏は人間のクズだ」と邪魔立てするものに容赦がない。かくて民営化反対の政財官を相手の戦いに挑んで9電力会社を発足させた。
上智大学名誉教授の渡部昇一は、戦前の米国による石油の対日全面禁輸や高度成長期の石油ショックの怖さを知らない世代が政権を握るようになった、と著書『本当のことがわかる昭和史』(PHP)で嘆いた。エネルギー確保に手を打てなければ、日本が滅びるとの危機感だ。
渡部は自給率の低い現状を無視して「脱原発」を騒ぐ風潮を叱り、「松永安左エ門ぐらい気骨のある人物が原子力発電を進めてくれれば」と切歯扼腕(せっしやくわん)した。
鬼の棲んだ柳瀬荘を訪ねることは、素顔の松永を知るに十分の価値があった。
=次回は7月7日掲載予定