話の肖像画

ゴルフプロデューサー・戸張捷<8> 大会創設とキャスターデビュー

第1回フジサンケイクラシックでショットを放つグラハム・マーシュ選手。初代王者に輝いた=昭和48年8月、埼玉県東松山市の高坂カントリークラブ
第1回フジサンケイクラシックでショットを放つグラハム・マーシュ選手。初代王者に輝いた=昭和48年8月、埼玉県東松山市の高坂カントリークラブ

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《入社2年目から辣腕(らつわん)上司、大西久光氏のもとで仕事に邁進(まいしん)する日々。昭和44年には大きな事業に携わった。自社ブランドの冠大会「ダンロップゴルフトーナメント」の創設だ》


米国では1960(昭和35)年ごろから、ジャック・ニクラウスやアーノルド・パーマーら若手選手が続々と台頭し、その活躍をテレビ放映することでゴルフ人気に拍車がかかっていました。日本でもその勢いに乗ってゴルフ市場を拡大したい。それにはゴルフの面白さを伝えるトーナメントを開催してテレビ中継し、できるだけ多くの人にプレーを見てもらうのが早道だ、となったのです。

「ダンロップゴルフトーナメント」(平成13年から「ダイヤモンドカップ」、今年から「ACNチャンピオンシップ」)の創設では、大西さんとともに学生時代の競技ゴルフでの知人や企業、テレビ局やマスコミなどをまわり、協賛やテレビ中継、報道のお願いをしました。ほかにもプロアマの出場枠を1口いくらかで売り出したのですが、これがなかなか売れない。そこで知り合いのプロゴルファーに「買ってください」と頼んだら、「俺はプロだぞ。もらう方だ」って(笑)。

トーナメントの立ち上げなんて初めてでしたので、大西さんといろんなアイデアを出しましたね。国内では大きなトーナメントは年間5大会くらいしかない時代で、大会には大勢のギャラリーが押し寄せ、視聴率もよかった。今後のゴルフ市場の拡大に手応えを感じました。


《その後、東京支社に転勤となった》


東京では営業部に配属となりました。代理店数社を回ってセールスをかけるのが仕事で、「売り上げを達成すればインセンティブ(報酬)を出しますよ」などと走り回っていたのですが、「このままでは埒(らち)があかないなあ」と物足りない。そのうち「東京でもトーナメントをつくったら面白いし、売り上げはもっと伸びるのでは」との思いが湧き上がってきました。

関西では相変わらず、大西さんが企業の冠大会創設に向けて活動されている。ならば東京は俺が、と、会社に内緒で企画書を作り始めた。せっかくやるのなら、何か違った大会にしたい。そこで思いついたのが、メディアがトーナメントを主催したら面白いぞ、とのアイデアです。企画書を書き上げ、つてがあった産経新聞の事業部に持ち込んだところ、責任者が「面白いからやってみよう。社内で話し合うよ」と好感触でした。

企画書は上層部に上がり、最後は当時のフジサンケイグループ会議に説明に行きました。当時26歳ですよ。役員が10人ほどいて、しわぶきひとつたてない緊迫した空気の中、熱弁を振るいました。「米国ではパーマー、ニクラウスら有望選手が絶頂期で、テレビ中継であっという間に人気になった」「それに伴い賞金額も2倍、3倍とうなぎ上りです」「日本でも将来、必ずそういう時代がくる」…。

今振り返っても、よくまああれだけ偉そうなことを言ったな、と冷や汗が出ますね。情熱が通じたのか、その場で即決です。こうしてフジサンケイクラシックの開催が決まり、第1回大会は昭和48年8月、埼玉の高坂カントリークラブで行われることになりました。


《開催にあたり、思わぬ事態に直面した》


忘れもしない、中継のリハーサルのときです。フジテレビの担当ディレクター、高島二六さんから「悪いんだけど、土、日曜日のテレビ中継を手伝ってくれない?」と頼まれた。運営が気掛かりで「無理ですよ」と断ったのですが、当時、ゴルフをよく知らない視聴者に面白さが伝わる構成にしたかったようです。説得されて引き受けたのですが、これが長年にわたるゴルフキャスターの歴史の始まりになりました。(聞き手 松本恵司)

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