歴史事象を解釈するときに必要なのは、「順序」だと思います。どの資料が確実性をもち、どの理解が蓋然(がいぜん)性をもつのか。そこをきっちりと踏まえて、確度の高い材料を先に立て、ムリのない推測で史像の解明に挑む。コレが王道。この戦国武将が好きだからとか、みなと違う視点を出して注目を浴びたいとかの「考察者の都合」はあとまわしです。このことを再確認して、さて、それで酒井忠次の続きです。
近ごろ、浜松を居城とした当時の徳川家康は、岡崎を任せた長男の信康と激しく対立していた、という説が有力視されています。でも、ぼくは反対です。なぜなら、先にも触れたことですが、家康の子作り、後継者作りが不自然だからです。
家康は理由は定かではないのですが、次男の秀康を嫌い、認知しようとしませんでした。ですので彼は除いて考える。三男の秀忠が生まれたのが、天正7(1579)年4月7日。信康は満20歳で同年の9月15日に自害しています。となると、家康はずっと、信康のスペアをもうけるつもりがなかったわけです。浜松時代の家康は、いうなれば、女性をもっとも欲する年代だったにもかかわらず。
もしも家康が信康と不和だったら、当然、家康は信康の代わりを考慮するでしょう。それをしていない。ということは、それだけ信康を信頼していたのではないか。ぼくは昔から言われていたとおり、織田信長が信康の排除を命じたと考えます。信康の死は、家康にしてみれば痛恨のできごとであった、と。そしてそこに、酒井忠次が関与してくる。
忠次は他の勢力との交渉役(申次(もうしつぎ)、取次(とりつぎ))を任されていました。今川領の分け取りの話を武田信玄とまとめたのは忠次ですし、信長との交渉も担っていました。信長は日ごろから忠次を評価していたからこそ、長篠の大一番で彼に意見を求めたのでしょう。忠次が吉田城を預かっていて、長篠付近の地理に明るかった、というだけでなく。
細かな経緯は史料によっていろいろなのですが、忠次は安土城において、信康の動向について、信長から質問を受けました。そこで彼は、信康が武田と通じている点について、認めたとも、否定しなかったとも伝えられています。信長に対して、積極的に、そんなことはあり得ない!とは陳弁しなかったのです。前々回の平岩親吉は「私の首を差し出すから、信康の切腹を取り消してくれ!」と家康に懇願した。忠次の態度がそうしたものでなかったことは、間違いないでしょう。それを受けて、信長は信康の処断を決定した。
ところが信康切腹の後も、忠次の立場は変わっていません。彼は徳川の戦いの先頭に立ち、「酒井忠次は家康の第一の家臣」と評価されるにふさわしい働きを示している。家康は信康を始末したかったのだ、と説明する人は、この史実も自説の証拠として取り入れています。でもここで、冒頭で示した「順序」を考慮したい。
武士社会の根幹は主従関係です。主人が従者を評価する基準は何か。「ご恩と奉公」の関係が成立していた鎌倉時代からずっと、それは何より領地です。おまえは私のために命を懸けて戦ってくれた。その働きに報いるために、おまえにこの土地を与える。
家康が部下たちに「石高」を明示して領地を分配したのは、徳川家が関東に移された、天正18(1590)年からです。当時はそういうくくりはなかったのですが、忠次の他の「徳川四天王」は、これまで紹介したとおり、井伊直政が12万石、本多忠勝と榊原康政が10万石を与えられました。では徳川家随一の酒井家は? 忠次は天正16年に隠居して、子息の家次の代になっていたのですが、彼は下総国臼井で3万7千石を与えられているにすぎません。その後、加増の沙汰はないまま、忠次は慶長元(1596)年に京都で亡くなりました。享年70。
家康が天下人になった後に、酒井家は加増されて高崎5万石に移ります。それでも、井伊・本多・榊原、さらには鳥居(元忠が伏見城を守って戦死した功で磐城平10万石)、平岩には及びません。家康が没した元和2(1616)年、ようやく越後・高田で10万石。信濃・松代を経由して8年に出羽・庄内13万8千石。これ以降は東北支配の要として、豊かな庄内の地を動かず、幕末を迎えています。
こうしてみると、家康は「俺の目の黒いうちは」と酒井家に厳しかったような気がしてなりません。逆にいうと、家康が亡くなると直ちに、酒井家は譜代の重鎮としての地位を回復しているのです。この史実が、考察の第一にならねばならない。そうすると、やはり家康は心の内では忠次を憎んでいた、と推察する他ないでしょう。理由はやはり信康事件になると思います。では忠次を用い続けたのはなぜか。そこにこそ、徳川を見捨てて出奔した数正の石川家を、すぐには取り潰さなかったのと同様に、家康という人の本質を見るべきではないでしょうか。
信康を見殺しにした酒井は憎い。でも直ちに冷遇したら、譜代大名のバランスが保てなくなる。だから、ここは辛抱だ。忠次が有能(とくに軍事的に)であることは周囲も認めている。徳川の発展のために働かせた上で、機会を見計らって、譜代第一の栄光は剝奪してやろう。家康は感情と理性の葛藤を抱えながら、おのれの素の思いを押し殺していた。そんなふうに考えてみたいのです。
酒井忠世
1572~1636年。血縁関係では忠次・家次とはかなり遠いものの、酒井家の一族である。忠世の流れは、忠次らの本家を「左衛門尉(さえもんのじょう)家」とするのに対し、「雅楽頭(うたのかみ)家」といわれた。徳川秀忠の側近となり、政治面で活躍する。秀忠から領地を与えられ、やがて父の領地(厩橋(まやばし)3万石余り)を継ぎ、そこからまた加増されて12万石を領した。彼の実績がもとになり、雅楽頭家は老中や若年寄など幕政の重職を務める家として確立した。
◇
次回は7月6日に掲載します。
本郷和人
ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。