ここでちょっと「背番号」の話をしよう。
【小林の19】「巨人時代から愛着があるので…」という本人の希望で、昭和49年の甲子園大会で〝高校四天王〟と騒がれ、ドラフト2位で入団した工藤一彦(投)から譲り受けたもの。
阪神で過去に「19」を付けた有名選手は土井垣武(捕)、大津淳(外)、藤井栄治(外)らと「野手」が多く、小林の引退後は中西清起や川尻哲郎らに受け継がれ、昨年までは藤浪晋太郎―と「投手」が多く付けた背番号である。
【江川の30】前年(53年)までクライド・ライトが付けていたもの。巨人のOBでは千葉茂(内)。藤本定義、水原茂といった「監督」の背番号でもあった。
さて、記録上、一旦は阪神に入団したことになっている江川の背番号が「3」だったことは有名。巨人でも「30」と決まるまでには紆余(うよ)曲折があったようだ。
当初は小林の後を受け「19」になる―というのが大方の予想だった。だが「19」ではどうしても小林の〝面影〟が残る―という球団の判断で、「19」は新外国人選手のリック・クルーガー(投)に決定した。
江川の好きな数字は「14」と「16」。だが、巨人では14=沢村栄治(投)、16=川上哲治(内)といずれも〝永久欠番〟。そこで球団は二宮至(外)が付けていた「27」と「30」を用意した。球団の狙いは「27」だったという。先輩の巨人担当記者によると―。
「江川が27を付ければ、西本の26から江川27、新浦28、鹿取29とずらり並ぶだろう。球団は〝売り〟になると考えたんだよ」
では、長嶋監督はどう考えていたのか。先輩によると、〝スーパー投手〟のイメージから、前年(53年)秋に来日したレッズのトム・シーバー投手の「41」がいいのでは―と考えていたという。
「でも、そのうち考えが変わった。誰かが付けていたからではなく、江川といったら〝○○番〟とみんなが答えるような印象づける背番号がいい―とね」
その候補の中には平成4年のドラフト1位で入団した松井秀喜(石川・星稜高)が付けた「55」もあったという。
さて、長嶋監督の願い通り、江川とくれば背番号「30」―といわれる選手になれたのだろうか。その判断は微妙だ。
ともあれ、彼のあとは橋本清(投)や宮国椋丞(投)らが引き継ぎ、現在は鍵谷陽平(投)の背番号である。(敬称略)