今から100年前、1923(大正12)年3月24日、現代の競馬の礎となった競馬法が貴族院で可決された。以降、今日の隆盛につながった。100年の歴史をさかのぼると、数々の名馬の出現が盛り上げていた。シンザン、ハイセイコー、オグリキャップ、ディープインパクト…。法律制定や傑出した日本馬の出現に尽力したのが「日本競馬の父」と称され、初代日本中央競馬会(JRA)理事長の安田伊左衛門氏。その功績は「安田記念」というレース名で現代に受け継がれ、今年は6月4日に東京競馬場で開催される。(運動部 佐竹修仁)
社会現象にもなった名馬たち
1923年に競馬法が制定されて以降、100年の歴史の中で、燦然(さんぜん)と輝く名馬の存在こそ、日本競馬の発展を担ってきたといっていい。
全国11カ所(当時)の競馬場ができ、英国や米国から種牡馬が輸入され、名馬が生まれる基礎となった。32年には第1回日本ダービーが行われ、1番人気のワカタカが初栄冠を飾った。以降、天皇賞、菊花賞などが生まれ、舞台が整った。
有能な軍用馬の育成資金調達が目的だった競馬は戦時下も行われ、41年にはセントライトが初のクラシック三冠を達成。43年は牝馬クリフジが「わずか6馬身」差でダービーを制覇。ほとんどが10馬身以上の差をつけた11戦11勝という生涯無敗の最多記録は、中央競馬では現在も続く大記録だ。
戦後の高度経済成長が本格化した59年にはハクチカラが米国遠征で勝利。日本調教馬として初の海外の重賞制覇となった。
列島が東京五輪に沸いた64年から翌年にかけシンザンが八大競走のうち、クラシック三冠を含む5つを制覇。73年には地方競馬出身のハイセイコーが人気を博し、「第1次競馬ブーム」を巻き起こした。
世界標準を目指しJRAがグレード制を導入した84年、シンボリルドルフが史上初の無敗三冠を達成し、売得金(馬券の売り上げ)が1兆5千億円を突破。86年にはメジロラモーヌが初の牝馬三冠。バブル景気に沸く87年には武豊がデビューし、競馬場に足を運ぶ女性ファンが増えた。88年にはオグリキャップが地方から移籍。武豊とともに「第2次競馬ブーム」を牽引(けんいん)し、90年の有馬記念で「奇跡の復活劇」を演じてターフを去った。
91年、バブル景気が崩壊するも競馬人気は衰えず、94年にはナリタブライアンが三冠達成。GⅠレースの新設、中央と地方の交流、女性騎手の誕生などさまざまな施策が行われ、97年には売得金が最高の4兆円に達した。
21世紀に入ると、日本馬が世界に通用するようになった。2001年、ステイゴールドが香港ヴァーズで勝利し、日本産の日本調教馬が長くはね返されてきた海外のGⅠをついに制した。
05年にはディープインパクトがGⅠレースを席巻。武豊をして「飛びましたね」と言わしめる驚異の走りでファンを魅了した。勝てなかったもののフランスの世界最高峰レース、凱旋(がいせん)門賞でも実力を示した。
牝馬も牡馬に引けをとらなくなった。07年にはウオッカが牝馬として64年ぶりにダービー制覇。08年はダイワスカーレットが有馬記念を37年ぶりに制した。
11年3月に発生した東日本大震災で国全体が沈む中、ヴィクトワールピサがドバイワールドカップV。オルフェーヴルが三冠でもり立てた。凱旋門賞は2年連続2着と優勝には届かなかった。
19年からの令和の時代は新型コロナウイルス禍で無観客開催となるも、女傑アーモンドアイが国内GⅠ8勝(海外1勝)をマークしたことはまだ記憶に新しい。