小林が着々と実戦でシーズン開幕への準備を進めているころ、江川も黙々と練習に励んでいた。
場所は変わらず栃木県小山市の「小山運動公園」。だが、もう〝孤独〟ではなかった。連日、多くのファンが声援を送り、「江川番」となった記者たちが朝から晩までへばり付いている。練習の相手も漫画家の水島新司先生からS運動具メーカーの矢沢正(捕手)が代わって務めていた。
矢沢正、昭和23年生まれ、当時30歳。中京商から41年にドラフト外で巨人に入団。小林の親友といわれ、53年に現役を引退。その矢沢が「おかしい。絶対に短い」と首をかしげた。マウンドのプレートからホームベースまでの距離が短い―というのだ。
小山運動公園は翌年(55年)開催の栃木国体でも使用されるメイン球場。これまでも高校野球で何度も使われてきた。
「そんなはずないと思いますが…」と球場管理者も首をかしげた。そこで、巻き尺を使って計測することに。ジャスト18・44メートル。1センチの狂いもなかった。ということは―。
「まだ、フォームもバラバラ。ボールの回転も定まらず、球離れの位置もまちまち。だけど低めにくるボールの伸びの凄さは、ボクがこれまでに受けたどの投手とも違う。マウンドの江川がやけに大きく、迫ってくる感じなんです」
矢沢は「怪物」の異名を取った江川が、再び〝覚醒〟するのを感じていたのだ。
2月中旬から始まった江川と矢沢の二人三脚でのトレーニング。初めはきつい練習メニューに悲鳴を上げていた江川だが、1カ月後のいまでは平気な顔。1周400メートルのトラックのランニングも、始めたころより10秒以上も縮める1分30秒台で軽く8周。ダッシュも軽快。バッティングになると「打つのは楽しい!」とニコニコ顔でバットを振る。そしてピッチングでは切れのある球を矢沢のミットに投げ込んだ。
「ヤツを見ていると憎らしくなります。始めたころはヒーヒー言って少しは可愛いげもあったんですが、いまはケロリとした顔でやってるんですから」と矢沢は目を細めた。
186センチ、88キロ。ちょっぴりお尻が大きくなった江川は胸を張ってこういった。
「たしかに大きくなってます。大学時代より下半身を鍛えているし、ことしは今までにないスピードがつきそう」
江川の巨人入団まで20日を切った。(敬称略)