本郷和人の日本史ナナメ読み

四天王筆頭・酒井忠次㊤ 家康を長く支えた名臣

真っ二つに割れた史跡「殺生石」=栃木県那須町
真っ二つに割れた史跡「殺生石」=栃木県那須町

さて、今月は徳川四天王の筆頭、つまりは徳川家臣団の随一、酒井忠次について述べていきたいと思います。

前にこのコラムでも取り上げたことがありますが、家康の生母、お大の方の母は華陽院(けよういん)という女性です。出自は諸説ありますが、明応元(1492)年に生まれ、三河国刈谷城主の水野忠政に嫁いでお大の方らを産みました。華陽院は相当の美貌の持ち主だったらしく、近隣の岡崎城主である松平清康に和睦の条件として奪われたといわれます。

清康と華陽院の間には女の子が生まれました。この子が酒井忠次に嫁ぎます。これが本当ならば忠次は、血はつながっていないものの、家康の叔父さんということになるわけです。華陽院は清康の死後、源応尼と名乗って駿府に住み、やがて人質としてやってきた松平竹千代(家康)の面倒を見たといわれています。

平野明夫さんという研究者は、このあたりの人の年齢を丹念に調べ、清康と華陽院の結婚はあり得ないと結論づけています。でも、それで決まりといえるほど、良質な史料は残っていません。ぼくが注目したいのは、九尾の狐(きつね)伝説です。

中国の古代国家、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)は愛姫である妲己(だっき)と暴政の限りを尽くして周の武王に討たれました。この妲己の本性は九尾の狐で、インドにいたときは華陽夫人を名乗って国を乱したのです。九尾はやがて日本にやってきて、玉藻前となって鳥羽上皇の寵愛(ちょうあい)を受けましたが本性が露見しました。三浦介義明と上総介広常の討伐を受け、姿を那須の殺生石に変えました。南北朝時代まで殺生石は邪悪な気体を放出していましたが、源翁(げんのう)心昭という僧侶によって破壊されました。

この物語は江戸時代に作られたものですが、華陽院と華陽夫人、源応尼と源翁の名がかぶるのがどうしても気になります。徳川の世を批判する民衆の精神が、家康の祖母を九尾の狐と関連づけたのでしょうか。なお、彼女の墓は静岡市の華陽院にありますが、境内には3歳で夭折(ようせつ)した徳川家康の最後の子、五女の市姫の墓もあります。華陽院は大河内氏の人という説があり、大河内松平家の正綱は幕府草創期に卓越した才腕を発揮した財政官僚(また、日光の杉並木を整備した人、知恵伊豆こと松平信綱の養父として知られる)で、市姫の母であるお梶の方を一時期、妻に迎えていました。そのあたりのことが関係して、市姫の墓が大河内家によって守られているのかもしれません。

さて、では忠次です。彼は大永7(1527)年、松平氏の譜代の臣、酒井忠親の次男として生まれました。元服して家康の父に仕え、竹千代(家康)が人質として駿府に赴いたとき、随行した家臣の中では酒井正親に次ぐ年長者でした。正親は、関係は遠いながら忠次の同族で、江戸時代に老中を輩出したもう一つの酒井家(本家である忠次の左衛門尉(さえもんのじょう)家に対して、雅楽頭(うたのかみ)家と称する)の当主です。

弘治2(1556)年、織田信長の命を受けた柴田勝家が千余りの兵で尾張・三河の国境の福谷城(愛知県みよし市福谷町)に攻め寄せました。このとき城を預かっていたのが忠次でした。彼は松平勢を率いて戦い、勝家を退却させています。戦場での彼の指揮ぶりが優れていたことがうかがえます。

桶狭間の戦いの後、今川家から独立した家康の家老となりました。永禄6(1563)年の三河一向一揆でも、忠次は家康のもとに残りました。翌年には吉田城(同豊橋市)を落として城主となり、東三河の旗頭として三河東部を任されました。

このあとも家康の戦いにはすべて部隊長として参加し、戦功を立てました。特筆すべきは、天正3(1575)年の長篠の戦い(武田軍と織田・徳川連合軍の決戦。武田は敗北したのみならず、信玄以来の重臣の多くを失った)です。『常山紀談』によると、忠次は合戦前の軍議において、武田本営の後方、鳶(とび)ケ巣山砦(とりで)の奇襲を提案しました。信長は皆の前では作戦を嘲笑しましたが、後にひそかに忠次を呼び出し、作戦の実行を命じました。嘲笑は情報の漏洩(ろうえい)を防ぐためだったのです。

忠次はこの命に応(こた)え、守備隊を壊滅させて砦を落としました。このため、武田勢は後方を押さえられて退却が困難になり、織田・徳川勢に向け突進しました。ですがそこには武田勢の前進を阻む柵が設けてあり、鉄砲の集中使用もあって、戦国最強をうたわれた武田騎馬隊は惨敗しました。

この戦いでの兵力は織田・徳川3万8千、武田1万5千といわれます。ぼくがどうにも分からなかったのは、武田勢が攻め、倍以上の兵をもつ織田・徳川が準備万全で迎え撃つ、という構図でした。兵数が逆ならばあるでしょうが、少数が多勢に向けて突進するのは、おかしくないか? ですが、そこに鳶ケ巣山砦の陥落という要素を考慮すると、尻に火が付いた武田は前に出るしかなかったわけで、理解が可能になります。武田は河窪信実(信玄の弟。勝頼の叔父)をはじめ、名のある武将に鳶ケ巣山砦を守らせていました。重視していたのです。その武将たちみなを打ち取り、合戦全体の勝敗を左右する大きな役割を果たした。それが忠次でした。

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【用語解説】殺生石

討伐を受けた玉藻前は、那須へ逃れ、石に姿を変えた。その石からは怨念のようなものが放射され、近づいた鳥や獣が命を奪われた。至徳2(1385)年、曹洞宗の僧侶である源翁心昭(源翁は玄翁とも)が殺生石の怨念を封じ込め、槌(つち)で砕いたという。破片は全国に飛び散り、那須には外周8メートル、高さ2メートル程度の石が残った。それも殺生石と称していたが、昨年3月に突然、2つに割れた。表面のひびから入った水分の凍結膨張による自然現象だったようだが、ロシアのウクライナ侵攻と絡めて話題とする人もいた。

【プロフィル】本郷和人

ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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