「近鉄王国」に残る孤高の田原本線 今はなき大和鉄道の意地

西田原本駅に残る大和鉄道時代のホーム(荒木利宏撮影)
西田原本駅に残る大和鉄道時代のホーム(荒木利宏撮影)

今年3月、全線開通から100周年を迎えた近鉄橿原線。奈良盆地を南北に縦断し、大和西大寺と橿原神宮前を結ぶこの路線の完成によって、近畿日本鉄道の前身の一つ・大阪電気軌道(大軌)は飛躍の時期を迎え、奈良県内での路線網を急速に拡充させていった。一方で、大軌の進出は県内の中小私鉄の再編を促し、やがて多くがその路線網に組み込まれていく。「国の名を負う鉄道」とうたわれた大和鉄道(現・近鉄田原本(たわらもと)線)も、そのうちの一つだ。沿線住民から「ヤマテツ」と親しまれた鉄道の歴史をたどった。

勢い増した大軌

鉄道関連の資料を多数所蔵する天理大付属天理参考館。現在、開催中の企画展「近鉄電車展Ⅱ-大和ゆかりの路線100年-」(6月5日まで)では、乗車券や路線図などの資料を通して近鉄をはじめ大和ゆかりの鉄道の歴史を振り返ることができる。その会場の一角に、大正12年3月の畝傍(うねび)線(現・橿原線)全線開通に伴い大軌が作成した路線図が展示されていた。

現在の橿原線全線開通時に大軌が製作した路線図。新法隆寺-天理間はすでに大軌の一路線となっている(天理参考館提供)
現在の橿原線全線開通時に大軌が製作した路線図。新法隆寺-天理間はすでに大軌の一路線となっている(天理参考館提供)

大軌の路線を示す赤の線が大阪府から生駒山をトンネルで越えて奈良県内に入り、西大寺(現・大和西大寺)で分岐して奈良と橿原方面をつないでいる。この時点で大軌は、天理と新法隆寺(現在は廃駅)を結ぶ天理軽便(けいべん)鉄道(現・近鉄天理線)を買収して自社の一路線としており、路線図にもその状況が反映されている。奈良県内で圧倒的な路線網を構築する大軌の進出の過程を知る上で興味深い資料だ。

「政府は畝傍線建設を許可するにあたって、打撃を受けると想定された天理軽便鉄道や大和鉄道に対する損失補償や買収を条件にしていた。大軌の進出は、奈良の中小私鉄再編のきっかけになった」と同館の乾誠二学芸員は説明する。

路線図には「他会社営業線」として、現在の田原本町と王寺町を結んでいた大和鉄道の路線も記されている。政府の予測通り、田原本を拠点とする大和鉄道の将来は、大軌によって大きく左右されることになる。

唱歌も作られた大和鉄道

大正7年4月の大和鉄道開業式当日の田原本駅の様子(近鉄グループホールディングス提供)
大正7年4月の大和鉄道開業式当日の田原本駅の様子(近鉄グループホールディングス提供)

大和鉄道は田原本町の有志が中心となって設立した鉄道会社で、大正7年4月、田原本-新王寺間で営業を開始した。それまで田原本周辺には鉄道が通じておらず、大阪方面への移動に便利な国有鉄道の王寺駅と連絡する新路線の実現は住民の悲願だった。

開業にあわせ、沿線の名所旧跡を七・五調でうたい上げた「大和鉄道唱歌」が作られる。42番まであるこの唱歌の作者は「大和の生き字引」とも評された文人学者、水木要太郎(雅号・十五堂)。奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大)の教授などを務め、県内の歴史や文化について研究を深める一方、古文書や美術品のコレクターとしても知られた人物だ。

水木十五堂「大和鉄道唱歌」の歌詞。島田登志子さんが筆写した
水木十五堂「大和鉄道唱歌」の歌詞。島田登志子さんが筆写した

唱歌は龍田大社や法隆寺、馬見(うまみ)古墳群など沿線の名所を紹介。「新王寺より六哩(マイル)/三分の道を一走り」、「朝日の匂ふ桜井は/やがて此線延びんとす」などと大和鉄道の宣伝も巧みに盛り込みながら、「国の名を負う鉄道の/力に誰か頼(よ)らざらむ/発展すべき鉄道の/前途を誰が祝(ほ)がざらむ」と結んでいる。新しい鉄道に寄せる当時の人々の熱気や期待が伝わってくるようだ。

水木の業績に詳しい千田稔・奈良県立図書情報館長は「専門的な歴史知識を唱歌という形で分かりやすく広めようとする姿勢が見て取れる。伸びやかな感性を持った水木ならではの作品」と語る。

パノラマ図も制作

大和鉄道唱歌に登場する沿線の名所旧跡を描いた島田登志子さん制作のパノラマ図
大和鉄道唱歌に登場する沿線の名所旧跡を描いた島田登志子さん制作のパノラマ図
大和鉄道唱歌ゆかりの沿線地図を制作した島田登志子さん
大和鉄道唱歌ゆかりの沿線地図を制作した島田登志子さん

「大和鉄道唱歌」は、開業当時に作られて以来、長く忘れられた存在になっていたが、奈良県三宅町に住む島田登志子さんが昨年7月、唱歌に歌われた名所旧跡を描いたパノラマ図(縦120センチ、横130センチ)を制作し、大和鉄道の沿線自治体の一つ、同県川西町に寄贈した。

島田さんが大和鉄道に関心を持ったのは、平成30年に開催予定だった大和鉄道開通100周年イベントに関わったことがきっかけだ。イベント自体は台風の影響で中止になったが、準備を進める中で大和鉄道唱歌の存在を知り、その内容に魅了された。「子供のころから見慣れていた名所が歌詞にちりばめられていて感動を覚えた。多くの人に地域の魅力を知ってもらいたいという思いに駆られた」と語る。

島田さんが、大和鉄道を知る沿線住民から聞いた話として印象に残っているのが、坂を登り切れずに立ち往生した車両を車掌と乗客が一緒になって押し上げたという逸話だ。沿線住民の間では「押したれや 押したれや ヤマテツ押したれや」のはやしことばも生まれたという。

電化路線に対抗できず

大和鉄道を走っていた「ガソリンカー」(近鉄グループホールディングス提供)
大和鉄道を走っていた「ガソリンカー」(近鉄グループホールディングス提供)
橋を渡る大和鉄道の列車(近鉄グループホールディングス提供)
橋を渡る大和鉄道の列車(近鉄グループホールディングス提供)
近鉄大阪線の高架下に今も残る大和鉄道の橋脚跡=奈良県桜井市
近鉄大阪線の高架下に今も残る大和鉄道の橋脚跡=奈良県桜井市

田原本-新王寺間を開通させると、大和鉄道は伊勢方面への延伸を目指し、大正11年に桜井と名張(三重県)を結ぶ路線を建設するための免許を取得する。翌12年には、唱歌に歌われたように田原本から桜井までの延伸を実現した。

しかし、同時期に大軌が田原本を経由する畝傍線を全通させたことで状況は一変する。非電化の蒸気鉄道だった大和鉄道は、所要時間や運行本数で電化路線を擁する大軌に対抗できず経営が悪化し、資金的に単独での三重・伊勢方面進出が難しくなった。そして大正14年、大和鉄道は大軌の傘下に入ることを決断。桜井-名張間の免許も実質的に大軌側に譲渡し、伊勢方面への路線網拡大に協力する結果となった。

その後、延伸した田原本-桜井間は戦時体制が強まる中、レールなどを資材に転用するため昭和19年に営業を休止。戦後も復活することなく廃線となり、路線跡の大部分は県道となった。一方、田原本-新王寺間は戦後になって近鉄の支援を受けて電化されたが、大和鉄道自体は昭和36年に近鉄系列の信貴生駒(しぎいこま)電鉄に合併され消滅。39年に同電鉄が近鉄に合併されたことで、旧大和鉄道の路線は近鉄田原本線となり、今に至っている。

田原本線に残るヤマテツの痕跡

地上から消え去って半世紀以上が過ぎた大和鉄道。かつての路線跡が今もいくつか残っているが、その痕跡を最もよく伝えているのは田原本線だろう。

近鉄田原本線の西田原本駅。奥に見える近鉄橿原線の田原本駅とは直接つながっていない=奈良県田原本町
近鉄田原本線の西田原本駅。奥に見える近鉄橿原線の田原本駅とは直接つながっていない=奈良県田原本町

同線は起点の新王寺駅、終点の西田原本駅(旧・大和鉄道田原本駅)ともに他の近鉄の駅(橿原線田原本駅、生駒線王寺駅)から至近距離にありながら直接には路線がつながっていない。戦後にレール幅を近鉄の規格に合わせる工事が行われ、物理的には乗り入れが可能だったはずだが、接続が実現しなかった理由については近鉄グループホールディングス広報部に問い合わせても資料が残っておらず、真相は分からない。

他の近鉄の路線と一線を画すかのように孤立している田原本線。そこに国の名を負う鉄道「ヤマテツ」のせめてもの意地を感じてしまうのは、うがちすぎた見方だろうか。田原本線は運営主体は変わりながらも、今も多くの沿線住民の通勤通学の足となり、100年前に託された期待に応え続けている。(荒木利宏)

会員限定記事会員サービス詳細