5月某日午前7時50分。あくびをかみ殺して黒部峡谷鉄道(略称・黒鉄(くろてつ))宇奈月駅の真ん前にある山小屋風の黒部川電気記念館にいる。
記念館は黒部ダムなど黒部川水系の電源開発の歩みと秘境黒部の魅力が短時間でわかる優れた施設だが、勉強不熱心な我々がわざわざ訪ねるはずがない。上部専用軌道に乗るためここでヘルメットを受け取り、ガイドから注意事項を聞くためだ。
ガイドをしてくれた黙阿弥さんは、トロッコ列車を何十年も運転し、定年後は請われて上部専用軌道を訪れる人々の案内役を務める「黒鉄の生き字引」。さっそくサンケイ君が、あれこれ尋ねていたが、細かすぎてよくわからなかったのでパス。
「危険だと私が判断した場合は、速やかに指示に従って避難してください」という黙阿弥さんの締めの一言で目が覚めた。
一刻も早くトロッコ列車に乗りたい。我々が乗車する午前8時37分発欅平(けやきだいら)行きは、時刻表に載っていない。ダムで働く人々や上部専用軌道を訪れる見学者を乗せて走る「混合列車」で観光客は乗れないのだ。
黒部のトロッコ列車といえば、背もたれのないシートに屋根がついただけの開放型客車が有名だが、「混合列車」に使用されている車両は密閉型で、13両も連結している。牽引(けんいん)するのはEDR形電気機関車の重連で、軌間762ミリの特殊狭軌とは思えない重量感である。
さあ、出発だ。いきなり鉄道写真愛好家、「撮り鉄」なら誰でも知っている真っ赤なアーチ橋である新山彦橋を渡る。真下を真っ青な黒部川が流れている。トンネルを抜けると、宇奈月ダムが見えてきた。ひと時も目が離せない絶景が続く。
前の車両を見ると、今日の作業手順を確認しているのだろう。多くの作業員がパソコンとにらめっこして、駅ごとに三々五々降りていく。水力発電はダムをつくり、下流に発電機を置いたら終わりの世界ではない。安定的に発電量を維持するためには日々のメンテナンスはもちろん、発電機器の修繕など大小さまざまな工事が必要なのだ。
笹平駅で降りた作業員の一人が、花束を抱えていた。
「誰かの誕生日なんですかねえ」と黙阿弥さんに何げなく聞くと、大きくかぶりを振った。
「山の神様に捧(ささ)げるんです」
映画「黒部の太陽」で描かれたように、黒部の大自然の厳しさは、今も昔も変わらない。特に冬は、黒鉄も運休せざるを得ず、作業員は荷物を担いで発電所に歩いていかねばならない。
夏場も一歩間違えば、命に関わる急峻(きゅうしゅん)な現場で仕事をせねばならないときもある。
「すべての作業員が、山の神様に感謝しているんです」と黙阿弥さんは言う。
黒鉄は観光鉄道ではあるが、電力供給を支える重要な産業鉄道でもあるのだ。
13両の車両を引っ張る重連の機関車は、「ナンダ坂、コンナ坂」と標高599メートルの欅平を目指す。終点での新たな出会いは、明日のこころだぁ!(乾正人)