裁判所とは、人が人を裁くところだ。事件や係争案件に寄り添い、考えに考え抜いて結論を導くに当たり、最も戒めるべきは、漫然とした流れ作業である。
平成9年に起きた神戸連続児童殺傷事件など重大な少年事件の裁判記録が多数廃棄されていた問題で、最高裁は調査報告書を公表し「後世に引き継ぐべき記録を多数失わせてしまったことについて、深く反省をし、事件に関係する人々を含め、国民の皆さまにおわびする」と謝罪した。
少年事件の記録は原則非公開だが、史料性のある事件では永久保存に当たる「特別保存」が義務付けられている。最高裁は平成4年の通達で、対象を世相を反映した事件、全国的に社会の耳目を集めた事件などと規定し、令和2年には最高裁判例集に掲載、主な日刊紙2紙以上に記事掲載―とする運用要領を示していた。
報告書は、記録の廃棄は「最高裁の不適切な対応」に起因し、多くの裁判所で特別保存に該当するかを「検討することなく漫然と廃棄された」と指摘した。長文の報告書には各裁判所のさまざまな職責での「漫然」の積み重ねが書き連ねられている。
神戸の事件で11歳だった次男を殺害された土師守さんは最高裁の有識者委員会で意見陳述し、「一般の常識と司法の常識には乖(かい)離(り)がある」と批判した。今月には次男の26回目の命日に際し、将来的な法改正で記録を閲覧できれば「真相に近づくことができるかもしれないと思っていた」「記録があれば、わずかかもしれないが希望がある。あるのとないのとでは雲泥の差がある」と述べていた。
当然の怒り、嘆きである。裁判記録の廃棄を被害者遺族がどう受け止めるか。そこに思いが至らなかった裁判所の想像力の欠如は致命的であり、許しがたい。
昨年10月にこの問題が明らかになった際、最高裁は「判断が適切であったかは見解を述べることを差し控えたい」と述べていた。全廃棄の判断が不適切だったことは当初から明白であり、その結論を前提に対処すべきだった。
最高裁は特別保存のあり方について国民の意見や専門家の知見を取り入れるため、常設の第三者委員会を設置するという。だが一番の問題は、全国の裁判所に蔓(まん)延(えん)する「漫然」である。最高裁は、この一掃に責任を持つ。