検証・雪の早明戦

(3)スーパールーキーの憂鬱

1年目からチームに欠かせない存在となった今泉(中央上)=1988年1月15日、国立競技場
1年目からチームに欠かせない存在となった今泉(中央上)=1988年1月15日、国立競技場

国鉄が分割民営化され、JRとなった1987年春、早大では埼玉県所沢市に所沢キャンパスが開設され、人間科学部が創設された。1期生として特別選抜で入学してきたのは、ラグビー部では高校日本代表組の堀越正巳(現・正己、埼玉・熊谷工)、今泉清(大分舞鶴高)、郷田正(福岡・筑紫丘高)の3人だった。

150人近い部員を抱える大所帯の早大ラグビー部だが、東京・東伏見のグラウンドそばにある寮で暮らすことができるのは選ばれた約40人に限られた。この年、大学入学と同時に寮で生活することが認められたのは特別選抜の3人を含む数人だけだった。

最初に入寮したのは今泉だったという。「最初なんだから一番に行きなさい」。母はそう提案した。その話に乗った今泉は入寮前日に大分から上京し、万全を期して東伏見に向かった。もくろみ通りの一番乗りだった。だが、何かがおかしかった。「おめでとう!」「あーあ。かわいそうに」。出迎えてくれた先輩たちの雰囲気もどこか妙に感じられた。

寮での共同生活には仕事の分担もあり、負担が大きいとされたのが食事係だった。今泉が記憶をたどりつつ、苦笑いを浮かべる。

「それって気合が入ったやつじゃないとできないから、最初に入寮した者にやらせようと決めていたようで。『だから君ね』って」

当時は寮母さんが不在の期間もあり、その際のメニュー作成や食材発注などが「食事係」の主な仕事だった。

毎食の準備や皿洗いをする「食事当番」は部員が交代で担当し、1年生は週に1回、2年生が2週間に1回、3年生は3週に1回、4年生は1カ月に1回程度という割り当てだった。だが、寮生には下級生が少なく、この割合では人手が足りなくなる。その穴を埋めるのは食事係で、「僕は多いときには週に3回入っていたんですよ」と今泉はいう。

日曜の夕食をカレーライスにすると、「俺はカレーは嫌いだ。ハヤシライスにしろ」という先輩が出てくる。ハヤシライスにすると、「なんでハヤシライスが多いんだ」と苦情がきた。

1年生には荷が重い役回りだったかもしれないが、「おかげさまで料理はできます」。今では青春の思い出の一ページになった。

一方、グラウンドでは春から潜在能力の高さを見せつけた。雪の早明戦ではWTBとして先発することになる今泉だが、入学当初のポジションはフランカーだった。身長183センチの大きな体のダイナミックな動きは人目を引いた。

副将の今駒憲二は「あの体格ですごいステップを切っていたので、すごく有力な選手だなと思ってみていました」と述懐する。

4月中旬に足を痛め、練習ができない時期もあったが、サッカー経験もある今泉は数カ月後、キッカーとしても欠かせない存在へと成長していった。

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