昭和の歌姫、中森明菜(57)。長らく活動休止状態が続いているが、忘れられるどころか復帰を待望する声が年々大きくなっている。
今年は5月1日のデビュー記念日を前に4月28日から映画「中森明菜イースト・ライヴ インデックス23 劇場用4Kデジタルリマスター版」の上映が全国の映画館で始まった。シングルヒット曲だけを歌い伝説化した平成元年4月の野外ライブの記録映像だ。映画の最後に、本人の最新音声コメントが流れることも話題になっている。
「絶対、戻ってきますよ」と明菜の歌手復帰を信じているのは、島田雄三(74)だ。
島田は元ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)のディレクター。
昭和57年5月1日発売のデビュー曲「スローモーション」から60年の「ミ・アモーレ」まで、11枚のシングルとベスト盤などを含む8枚のアルバムの制作を手掛けた。
歌手、明菜の育ての親といっていい。
ワーナーは昨年から今年にかけて、デビュー40周年に合わせて明菜のアルバムを順次、復刻している。
古巣からアルバム解説の執筆を頼まれた島田は、40年前の出来事を文字にしていった。昨日のことのようにはっきりと覚えていた。
「あの子のことは忘れられない。レコードが50万枚、60万枚も売れるアーティストが育つ過程を見る機会など、そうそうあるものではないからだ」
スローモーション
明菜は56年、「スター誕生!」というテレビのオーディション番組に出場。島田がいたワーナーから歌手デビューすることになった。
そのレコード制作のディレクターになった島田は、1年でシングル4枚、アルバムを3枚を作る計画を立て、実践した。
相当なハイペースだが、45年に発足した新興勢力のワーナーにはアイドルを育てた経験が乏しかった。
「他社と同じことをしていても、ライバルには勝てない」と島田は考えた。
デビュー曲は「スローモーション」。「寡黙で、かわいらしい、良い子」という第一印象に基づいて島田が選んだ。作詞作曲は来生えつこと来生たかお。56年公開の映画「セーラー服と機関銃」の主題歌で注目された新進のシンガー・ソングライター姉弟だ。
実は、名のあるヒットメーカーからは軒並み断られていた。
だが、明菜16歳、島田もまだ、キャリア10年。作家陣もフレッシュな顔ぶれという若い力が結集した音楽づくりは、当時の若者をひきつけた。
57年5月1日にデビューした明菜は、早くも同5日には東京のとしまえん(当時)でデビューコンサートを開いた。
「ところが、土砂降りの雨でね、これは誰も来ないなと思っていたら、わーっと来るわけですよ」
島田は、ゾクゾクしながら思った。
「こいつ、何かを持っているな…」
少女A
島田は、寡黙で、かわいらしいという第一印象とは裏腹の明菜の顔も知ることになる。
最初は、インタビューのたびに問題が生じているという話が聞こえてきた。怒って中座したなどという噂も耳にした。
売れ始めた明菜へのやっかみから生まれた作り話も混じっていたが、おおむね事実だった。また、「スター誕生!」の審査員と言い合いになったこともあったと知らされた。
「これは、まずい」。とりあえず、音楽に関するインタビューは、島田が代わって答えることになった。
「明菜は、6人きょうだいの下から2番目。小さい頃から自分のことは自分でしなくてはならない環境で育った。実は、芯の強い子だと分かった」
島田は、その明菜の二面性に着目した。次の新曲では少女の二面性を打ち出そうと考え選んだのが「少女A」だった。「スローモーション」からがらりと印象を変え、すごみを利かせたロックナンバーだ。
島田はここでも、作詞の売野雅勇(うりの・まさお)と作曲の芹澤廣明というフレッシュなコンビを起用した。この2人が「涙のリクエスト」など、チェッカーズの一連のヒット曲を手掛けるのは後の話だ。
だが、明菜は会議の席上で、これを歌うのは「イヤだ」と泣いて抵抗した。わめき、鼻水をたらし、髪をかきむしり、拒み続ける明菜。「修羅場だった」と島田は振り返る。
島田によれば、「Aは明菜のA」だと思い込んだ明菜は、その歌が不良賛歌であることが許せなかったらしい。
だが、新曲は「少女A」に決まった。
明菜は不承不承、録音スタジオに入った。島田は黙って迎えた。黙り続けていたら、「ねえ、どうしたの、せっかくきたのだから録音しようよ」と明菜が折れた。
島田は不機嫌な明菜をさらに怒らせ、感情を高ぶらせるような言葉をぶつけながら、テストを含め、都合3回だけの録音でOKを出した。
島田と明菜の冷戦はしばらく続いたが、「少女A」は57年7月に発売されるやいなや、大ヒットした。
「そうしたら、本人はもうにっこり。かわいいんですよ。その人たらしの才能はすごい。皆を味方につけちゃうんだから」
ミ・アモーレ
「僕らは似たところがあって、お互い言いたいことを言い合った」と島田は思い出す。こうも言う。
「明菜が一番信頼していたのは僕だった。一番怖かったのも僕だったろう」
だが、島田は60年に発売された11曲目のシングル「ミ・アモーレ」をもってディレクターを退く。
明菜を担当中、島田は過労などで3度倒れ、救急車で搬送された。
当時、島田は、ほかの歌手も含めて年間で100曲を制作していた。100曲分の方針を決め、作家を選び、会議を通し、録音の手配をし、時には仮歌も歌った。もちろんメインは明菜。島田は、文字通り命がけで明菜のレコードを作った。
「あれ以上続けていたら、僕は死んでいたかもしれない。売れていることはありがたいことでしたが、年間100億円からのビジネスを一人で作るのはプレッシャーも半端なく、精神的にも肉体的にもつらかった」
それだけではない。明菜も成長し、周囲には「いつまでもレコード会社のディレクターに制作を任せておくべきではない」などと吹き込む大人たちが現れていた。
島田は、そうした影響により、やがて制作方針をめぐって明菜と正面衝突する日がくることを憂慮した。
自身の体調と明菜の将来。この2点を考慮し、ディレクター職を後進に託し、自身はプロデューサーとなったが、録音現場には顔は出さなかったという。
「ほかのディレクターは、何もアドバイスをくれない」。たまに出くわした明菜は愚痴をこぼしたというが、平成元年の自殺騒動以後、会うことはなくなった。明菜は5年に移籍し、島田も6年に他社に転職した。
テレパシー
島田は、40周年復刻版の解説を手掛けたことをきっかけに、「オマージュ<賛歌> to 中森明菜」(シンコーミュージック・エンタテイメント)という本をまとめ、今年1月に出版した。
「明菜はインタビューに答えたことが、ほとんどなく、レコーディングのことは語られていない。時代の中で、明菜がどんな存在であったかという視点でまとめてみた」と島田は語る。
ディレクター降板をめぐって、「島田と明菜には確執があった」と噂されたそうで、「そうではない」と主張することも本を著した大きな理由だという。
テレビ番組の企画で明菜が取り上げられる機会が増えていることなどから、島田は「明菜復帰待望論の空気をひしひしと感じる」という。
本を出した後、10~60代の明菜ファンの女性を集め、令和の明菜待望論の背景に何があるのか探ろうとしたが、「結局、分からなかった」と苦笑いする。
「美空ひばりさんや山口百恵さん同様、明菜の歌には人知を超えた何かがあるのでしょう」
そして、島田はまじめな顔で、不思議なことを言い出す。
「たまにね、僕のところに明菜からテレパシーが飛んでくるんですよ。だから分かるんですよ、絶対に歌手活動に復帰すると。歌が大好きな子ですから」
復帰したって、ディレクターなんかやるものか。命がいくつあっても足りゃあしねえ。島田は首をすくめるが…。
「でもね…なんかね…僕ら父娘みたいなもんでね、『1作でいいから作って』なんて頼まれたら『うん、うん、やるよ』って答えるんだろうなあ」
(石井健)