(月刊「正論」3月号より)
外務省のホームページには、南京事件の項目が設けられており、次のように記述されている。
「日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」
市民殺害と掠奪があったとし、南京事件を認めている。記述は平成十七年八月から続いている。
情報公開法が制定されて国民は行政文書の開示を求めることができるようになった。外務省がこのように記述する根拠は何なのか。どのような資料をもとにこう記述しているのか。私は令和三年三月十五日に開示を求めた。
令和四年一月十四日、回答がきた。それによると、「関係するファイル内を探索しましたが、該当文書を確認できなかった」と理由をあげて「不開示(不存在)」となっていた。
記述のもととなる資料が外務省にはないというのである。これまでも私は何度も行政文書の開示を求めてきたがいずれも一カ月か二カ月で回答が得られた。ところが今回の請求では「そろそろ出てもおかしくないだろう」と思っていたところへ「待ってほしい」といわれた。こんなことは初めてだった。
なぜ、私は南京事件を追い続けるのか。例えば私の手元には今、日米中韓の高校生に対する意識調査があるのだが、その調査では「自分はダメな人間だ」と思う「ネガティブ思考」をする高校生が、「そうでない」とする高校生より多いのは日本だけだ。逆に、「ポジティブ思考」をする高校生が一番少ないのも日本である。同じような統計はほかにもあるが、こうした日本特有の傾向は「自虐史観」がもたらしたものだろう。そして日本人を自虐史観に染める筆頭となる事象、それは南京事件にほかならないと考えるからだ。
論争が続いているにも拘わらず南京事件について外務省はその存在を断定している。「ホームページ記載のもとになる資料がない」では済まされない。外務省は何としても、探し出そうとしたのだろう。しかし、資料はなかった。それで請求から十カ月も経ってから「ない」と回答せざるを得なかったのである。
国会質疑に見る南京事件
回答を手にして私は「やはり」と思った。というのは、それまで外務省は、南京事件の存在を認める発言を繰り返してきたが、いつも根拠を示してこなかったし、根拠の存在についてあやふやな答えしかしてこなかったからである。それは長期にわたっている。例えばこうである。
昭和五十九年七月の衆議院決算委員会で民社党の滝沢幸助議員が南京事件について質問した。安倍晋太郎外務大臣の答えはこうだった。
「そういう事実はなかったという議論もございましたし、あるいはそういう事実があったという議論もあったように承知いたしております」
昭和六十三年五月十三日の閣議で奥野誠亮国土庁長官は「南京大虐殺碑が南京に建っており、前に白骨と日本刀が置かれている。犠牲者はこの日本刀で日本人に殺されたと宣伝している。こうしたことは日中友好のために良くない」などと発言した。奥野氏は五月九日の衆院決算委員会で「日本に侵略の意図はなかった」などと発言し、メディアに取り上げられて、中国からも批判された末、辞職を余儀なくされる。その過程で外務省の藤田公郎アジア局長は参院外交安全調査会でこう答えている。
「個々の事件についての評価云々ということにはむしろ立ち入らないことの方が適当ではないか」
平成三年十一月二十六日の衆院国際平和協力特別委員会では、「自民党内に南京事件はなかったとの意見があるが」と社会党の沢藤礼次郎議員が質問した。宮沢喜一総理大臣はこう答えている。
「正確な記録あるいは内容は別といたしまして、そういうふうに伝えられた事実があったもの、それは極めて遺憾なことだと私は思っています」
正確な記録があるかどうかは別だといっているのである。
平成十七年七月、衆議院外務委員会では民主党の松原仁議員が質問し、町村信孝外務大臣は次のように答えている。
「南京事件において一体何万人の方が虐殺されたのか、殺されたのか、一般人は、軍人はということについて、政府が詳細な調査をやって、その結果を出さなければならない責任があるか。それは私は、率直に言って、どうかなと思います」
こうした発言を外務省は繰り返してきた。これらの発言から、南京事件に明確な根拠があって発言がされているのでないことは明らかである。
東京裁判「南京事件」の破綻
外務省が根拠としているのは東京裁判と推測される。しかし、東京裁判で持ち出された「南京事件」は既に破綻が明白である。
東京裁判における南京事件は、米国人宣教師であるベイツやマギーの証言で始まったものだった。
ベイツが証言台に立ったのは昭和二十一年七月二十九日。この日、ベイツは一日中、日本兵による殺害、強姦、略奪を証言した。
「日本軍入城後何日もの間、私の家の近所の路で、射殺された民間人の屍体がごろごろして居ました」
八月十五日午後にはマギーが証言台に立って、引き続いて翌日午前も証言台に立った。マギーも日本軍の殺戮、強姦、略奪を延々と証言した。
「日本軍に依りまする殺戮行為は到る処で行われたのであります。暫く致しますると南京の市内には到る所に中国人の死骸がごろごろと横たわって居るようになったのであります」
これらの証言が相次いで、たちまちのうちに凄まじい南京事件像がつくりだされた。
ところが、マギーの証言が終わるころ、ブルックス弁護人が尋問している。
「それでは只今の御話になった不法行為若しくは殺人行為と云うものの現行犯を、あなた御自身幾ら位御覧になりましたか」
すると、マギーは答えた。
「唯僅かひとりの事件だけは自分で目撃致しました」
さらにブルックス弁護人が尋問した。
「あなた御自身が、強盗であると思われ、若しくはあなた御自身が強盗されたと云う事件を、あなたはどの位の数御自身で御体験になりましたか」
マギーは答えた。
「私は実際に先程申しましたように『アイス・ボックス』を盗んで居ったのを見ましたことは憶えて居ります」
殺害と略奪があったとする証言は、ほとんどが架空の出来事か、伝聞であったのだ。
それでは、実際の南京はどのようなものだったのか。
攻略から半月で正月がやってきた。南京を警備していた兵隊に酒がふるまわれ、餅を食べて祝った。南京市民による自治委員会が成立し、元日には市の中央にある鼓楼で発会式が行われた。それを祝って三万人の市民が旗行進をする。楽隊が鼓楼まで行進し、街は爆竹でにぎわう。南京は平穏な正月を迎えていた。
埋葬記録への疑問
東京裁判では、証言に続いて埋葬記録が法廷に提出された。崇善堂が十一万一千余人、紅卍字会が四万二千余人を埋葬したという記録である。
しかし、その埋葬記録も疑問が尽きない。まず崇善堂についていえばこうであった。
当時南京で刊行されていた記録を見ると、崇善堂は捨てられた赤ちゃんを育てる慈善団体と記されている。南京戦が始まるころ、その活動は途絶えてしまう。翌年九月、南京市の援助により赤ちゃんを育てる活動が始まるが、活発ではなかった。崇善堂はこのような慈善団体だったので、埋葬などできなかった。当時の新聞、宣教師の手紙や日記などに崇善堂という名前はまったく出ていない。戦後、南京で戦争裁判が開かれると中国の検察官の主導で宣伝に合わせて昭和十三年に崇善堂が埋葬した記録が捏造され、それらが東京裁判に提出されたものだった。
もうひとつの紅卍字会にも問題があった。
南京には多くの中国軍の戦死体があり、紅卍字会がそれらを埋葬したことは事実である。しかし、数に疑問があった。それについて弁護側は、六百七十二体や九百九十六体を埋葬することもあれば、四千六百八十五体や五千八百五体埋葬することもあるが、いかに作業人員に増減があったとしても、このような莫大な差があるべきはずはない、と指摘した。
指摘は的を射たもので、埋葬の実態は次のようなものだった。
埋葬を指揮したのは日本の南京特務機関で、南京特務機関は埋葬に従事する貧民を援助するため、決められていた賃金より多くの金額を支払った。帳尻をあわせるため、埋葬人数が水増しされる方法が採られた。一日で埋葬できるのは二百体弱であるが、何百人、何千人を埋葬した日もあるとされた。
埋葬が始まったのはコレラの流行が心配され始めた二月だったが、これも十二月から埋葬していることにされた。このようなことが行われたため、実際に埋葬された数は半分以下であって、かつ南京が決戦場だったことを考えるなら、それらはほとんどが中国軍兵士である。
また、これらからわかることは紅卍字会の埋葬記録ですら、市民殺害を証明していないということだ。埋葬記録によって証言は事実とされたが、東京裁判の下した判決は破綻していたのである。
歴代政府も認めなかった
いうまでもなく、日本は南京事件を認めてこなかった。アメリカの占領下に置かれていたころ、教科書に記述するよう強制されたが、独立するとともに消えた。歴代の政府も南京事件を認めてこなかった。昭和五十五年七月に成立した鈴木善幸内閣においても、小川平二文部大臣は、五十七年七月二十三日、日教組委員長に対して「文部省は公正で客観的記述をするよう指導している。南京で二十万人が殺されたという数字は伝聞に基づくもので、資料として信憑性がない」と明確に述べていた。また同じ日に宮沢喜一官房長官も「(東京裁判の)判決のなかで言っていることだけが歴史の事実と言えるかどうか。断定し難い」と南京事件の信憑性に疑義を示し、明確に否定していた。
昭和五十七年六月、教科書誤報事件が起き、小川文部大臣や宮沢官房長官の発言のあと、国会の委員会で南京事件がとりあげられる。
この時期、新たな発見があって南京事件の評価が一変したわけではなかったが、外務省は委員会で一方的に南京事件を認めた。鈴木総理大臣の相談にあずかっていた外務省の木内昭胤アジア局長はこう語っている。
「南京の虐殺が中国人の抵抗のため余儀なくされたのでは中国も黙っておれません」
こうしたこともあって南京事件を認めた。それによって近隣諸国条項も生まれたのである。
格段の根拠もなく南京事件を認める外務省の姿勢はその後も変わらなかった。
平成六年四月、永野茂門法務大臣が、「南京大虐殺などでっち上げだと思う」と発言し、辞任せざるをえなくなる出来事があった。辞任の後、熊谷弘官房長官はこう述べていた。
「永野茂門法相の辞任を認めたことが、歴史的にその規模が確定していない『南京事件』の事実を追認することになるとの見方については追認にはつながらない」
政府内で南京事件が議論され、一致する認識に達したわけではないことがわかる。根拠となる資料がないからである。
市民殺害を言い出した宰相
ところが一カ月後、羽田孜総理大臣がこういって南京事件を認めてしまう。
「日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害あるいは掠奪行為等があったことは私どもも否定できない事実であるというふうに考えております」
発言は市民殺害を認めたものだが、この一カ月の間に、南京事件を変えるような記録などが見つかったわけではない。以降、政府はこの文言を繰り返すようになり、ホームページにも載るようになった。
外務省が一方的に事実関係を断定して政府関係者にいわせる。羽田総理に限らない。そう考えなければ平仄が合わない例はほかにもある。
例えば教科書誤報事件が起きた時、外務大臣を務めていた桜内義雄氏だ。氏は五十七年八月九日の衆議院外務委員会で「(日本は)過去の行為についての反省がないのではないか、あるいは事実を曲げて教育しているのではないか」などと答弁していた。ところが平成八年九月十九日には「私が出征して南京の病院に入院していた時、現地の人から虐殺のことは何も聞かなかった。来年の教科書には二十万とか三十万人とか書かれているが、疑わしい」などと述べている。
永野法務大臣辞任の時の総理大臣は羽田孜氏である。羽田総理大臣の選出区である長野で編成された歩兵第百五十連隊は、昭和十二年十二月十二日夕方、雨花門から南京城に突入した。日本軍のなかでもっとも早い城内突入で、そのことは当時地元紙「信濃毎日新聞」に連日大々的に報道された。歩兵第百五十連隊は予備役で編成されたものの、羽田総理大臣が南京事件を認めたころ従軍兵士はまだ存命中である。羽田総理大臣の支援者のなかにもいるかもしれない。地元で確かめてください、と私は羽田総理大臣宛に手紙を書いた。いうまでもなく返事はなかった。
反復回答の外務省
該当文書を確認できなかったという外務省からの回答を手にし「やはり」と思ったのには、ほかにも理由がある。政府は南京事件についてたびたび発言してきたので、その発言について根拠は何なのか、それについても文書の開示を求めてきたが、外務省はいつもホームページと同じようにしか回答してこなかったからである。
ホームページについて質問する五年前の平成二十八年六月、宮沢総理大臣が在任中の平成三年十一月二十六日に行った、南京事件に関する発言について根拠の開示を求めた。七月に外務省はこう回答した。
「対象文書が含まれていると思われるファイルは保存期間が満了し廃棄されており、当方では保有していない」
中国が十二月十三日を国家追悼日にするとしたのに対し、菅義偉官房長官が平成二十六年二月に「日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害、略奪行為があったことは否定できない」と述べたことがあった。これも私は平成二十八年八月、発言の根拠は何かと求めた。すると、文書の存在は確認できなかったと答えてきた。
さらに西村真悟衆議院議員が平成十九年四月に出した質問主意書に「非戦闘員の殺害または略奪行為等があったことは否定できないと考えている」とした政府の回答にも平成二十八年十二月、回答の根拠とする文書は何かと私は質問した。すると、平成二十九年一月、こう回答してきた。
「対象文書が保管されている可能性のあるファイル内を探索しましたが、現在のところ該当する文書を発見できておりません」
平成三十一年一月にも質問した。外務省の橋本恕情報文化局長が昭和五十七年七月に「ただいま先生(土井たか子衆議院議員)がご指摘になりましたようなお考え(南京で二十万人が虐殺された)が中国の中にはもちろん世界的にも存在するという事実は謙虚に受けとめたい」と発言した。そこで、中国の誰の発言を指すのか、どの資料を指すのか質問すると、二月、こう回答してきた。
「関係するファイル内を探索しましたが、該当文書を確認できなかった」
南京事件についての外務省の回答はつねに資料がないのである。
これらから、外務省は何か資料をもとに南京事件を認め、発言してきたわけでないことは明らかである。
戦争に情報戦はつきもの
平成に入ると、南京事件の解明がさらに進んだ。平成四年、大阪学院大学名誉教授、丹羽春喜氏が、アメリカ合衆国の宣教師で中華民国に派遣されたスマイスが行った南京事件に関する調査報告書にある数値の相違を解明する。平成十三年、立命館大学名誉教授、北村稔氏は中華民国が南京事件を宣伝していった実態を解き明かす。平成十五年、亜細亜大学名誉教授、東中野修道氏がベイツの姿を浮き彫りにする。平成十六年、歴史研究家の冨澤繁信氏は宣教師の報告書が恣意的であることを明らかにする。それらにより、南京事件といわれているものは戦争プロパガンダであったことが明らかにされた。
ウクライナの戦いで情報戦が重要であることがわかる。例えば、ポーランドにミサイルが落ちると、ウクライナもロシアも相手国のミサイルだと主張する。そう主張して第三国を味方につけようとする。
支那事変のころ、情報戦は思想戦と呼ばれていた。支那事変が起こり、北京の争いが上海へ拡大すると、中国はさまざまな思想戦に挑んだ。
上海にはアメリカ極東艦隊がおり、昭和十二年八月二十日、旗艦オーガスタに高射砲が撃ちこまれ、一人が即死、十八人が重軽傷を負った。オーガスタを砲撃できるのは中国軍の高射砲であるが、日本の高射砲も撃てる可能性があった。翌日、日本は非公式ながら日本の砲撃によるものでないと発表する。しかし中国は認めなかった。これでは、日本が砲撃したことになってしまう。オーガスタは二十八日にも付近に多数の砲弾が落下、アメリカは中国に抗議する。支那事変の初めから中国の思想戦は熾烈を極めていた。
日本で思想戦を担ったのは、軍部だけでなかった。外務省も、内務省、逓信省も行った。支那事変から二カ月経った九月二十五日、内閣情報部が設けられ、日本の思想戦の中心となった。部長には内務官僚の横溝光暉氏がついた。思想戦は、戦いが始まってから開始されるものでなく、始まる前から行わなければならない、たとえ戦いに敗れても思想戦は続けることができるし、続けなければならない、と説かれた。
陸軍で思想戦を担っていたのは参謀本部第八課である。参謀本部第八課の藤原岩市中佐や桑原長中佐は、南方アジアでの思想戦を指導し、対米英戦争が始まると、華々しい成果をあげる。
しかし二人はつねに日本の思想戦に危機感をもっていた。
こんなことがあった。南京が陥落した時、日本の新聞記者は南京に入り、宣教師と会う。宣教師の一人、ベイツと会った毎日新聞は、ベイツから、河井道という女性を知っているという話を聞く。河井道は、かつてアメリカに留学し、帰国してキリスト教の伝道に努め、日本のYWCAの代表についた。支那事変が始まると、海外の報道を信じ、日本の行動を独善的だとみなした。南京の陥落を嘆き、南京陥落の祝賀に加わらなかったので批判された。南京攻略に沸いた日本人としては異色である。そういう河井道の名前をあげているベイツを、毎日新聞は親日家として報道している。
これがひとつの例であるが、第三国への対処という思想戦で日本は後れを取った。それに気づくものの、敗戦になるまで後れを取りもどすまでにはいかなかった。
戦時宣伝の視点を欠く戦後
日本は戦争に負けた。軍は無条件降伏し、解体された。軍人は公職追放され、恩給もなくなった。外務省は解体されなかったものの、外交はまったくなくなり、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)との交渉だけが業務で、解雇者が続出する。内務省は分割され、それまでの絶対的な権限は消滅する。国策通信社の同盟は分轄される。思想戦を担う部署は日本に存在しなくなり、新たにもうけられることもなかった。
敗れても思想戦は戦わなければならないといわれていた。そういったなか、敗戦後の日本はどう対処したか。
戦時宣伝であった南京事件にしぼってみる。
さきほど見たように昭和五十七年に外務省は一方的に南京事件を認める。昭和六十一年、「新編日本史」が検定に合格し、中国が抗議すると、中曽根康弘総理大臣と海部俊樹文部大臣は修正を求めだし、文部省も「南京大虐殺」と書きあらためるよう求める。平成六年、永野法務大臣が南京事件はなかったのではないかと発言すると、与野党が永野法務大臣を辞職に追いこみ、以後、大臣や政府高官が南京事件について発言することをできなくした。
民間での動きを見ると、昭和五十八年、東京裁判を撮影したフイルムを編集して記録映画「東京裁判」が製作された。日米が開戦するとアメリカで戦意高揚映画「中国の戦い」が製作され、そのさい南京事件が演出され挿入された。この演出された南京事件を、記録映画「東京裁判」は使用した。
思想戦を戦った藤原岩市中佐は、戦後の思想戦も負けたと語っている。
かつてユーチューブでは自由に見方や意見をあげることができた。しかし、何年かまえから、南京事件に疑問を呈した見方をあげると、削除される出来事が相次いだ。制限は次第に厳しくなり、いまでは南京事件という言葉を使っただけで削除される。ネットの世界は、現在、発言や表現の場で大きい地位を占めているが、その世界で南京事件はこのような状態におかれている。この流れをつくったのは外務省であり、外務省のホームページであろう。
日本軍が南京を攻略して八十五年経つ。外務省が南京事件をホームページにあげたまま十八年がたつ。南京攻略八十五年目にあたり、私はここにあげたような外務省の姿勢を批判しなければならないと考え、「決定版 南京事件はなかった 目覚めよ外務省!」(展転社)を書いた。
(月刊「正論」3月号より)
あら・けんいち
近現代史研究家。昭和十九年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。南京事件に関する著書に「再検証 南京で本当は何が起こったのか」(徳間書店)、「『南京事件』日本人48人の証言」(小学館)、「謎解き『南京事件』」(PHP)があり、南京攻略八十五年を迎えて二冊発行した。「『南京事件』日本人48人の証言」(小学館)が電子書籍になったため、「決定版 『南京事件』日本人50人の証言」(育鵬社)として新たに発行し、もう一冊は、これまでの研究の集大成ともいうべき「決定版 南京事件はなかった 目覚めよ外務省!」(展転社)である。