令和人国記

初の甲子園優勝旗に大歓声 神奈川・藤沢育ち 元プロ野球選手の佐々木信也さん(89)

神奈川県藤沢市に住んでいた頃の思い出を語る佐々木信也さん=東京都三鷹市(江目智則撮影)
神奈川県藤沢市に住んでいた頃の思い出を語る佐々木信也さん=東京都三鷹市(江目智則撮影)

フジテレビ系列の「プロ野球ニュース」で長年、メインキャスターを務めた元プロ野球選手、佐々木信也さん(89)は神奈川県藤沢市で育った。終戦間もない昭和24年、湘南高1年の時に夏の甲子園大会で優勝。深紅の大優勝旗を初めて同県にもたらし、大フィーバーを巻き起こした。70年以上前の出来事を振り返ってもらった。

東京の家売り転居

生まれは東京ですが、戦争が始まって半年後の昭和17年、藤沢市の鵠沼(くげぬま)海岸に越して来ました。8歳の時ですね。おやじは、あの戦争を「負け戦」と予想したと思うんですよ。それで、東京の東急九品仏(くほんぶつ)駅近くの家を売ったんです。藤沢は「もの静かな良い所だな」と思いましたね。

海が(家から徒歩)5、6分の所にありましたから、海岸にはよく行きました。そのうち、(米軍の)空襲が激しくなったから、家からはあまり出ないようになりましたが。近所の人も含めて、皆で家の庭に大きな防空壕(ぼうくうごう)を掘りました。空襲警報が出ると、20人ぐらいが避難して来ましたね。

藤沢から鵠沼海岸まで小田急電車で2駅。空襲となると、電車が狙われて危ないというので、歩いて帰りました。米軍B-29爆撃機などは相模湾から入って来るんです。通過して東京方面に向かうんですが、何度か空中戦を見ました。真っ赤に燃えた機体が上空を通過して海に落ちたとか。

戦時中のスポーツ、楽しみですか。何もないですよ。

〝引っ越し〟が奏功

戦争が終わり、新制の湘南高では、おやじが野球部の監督になりました。(私が)1年の夏に甲子園で優勝したんですが、行っただけでも大満足。「1つ勝ちゃあいいや」と言っていたのが、(決勝を含め)4試合とも全部勝ちましたからね。私はまだ、15歳。7番バッターのレフトでした。

甲子園へは、皆が米2升を袋に入れて持って行きました。最初に泊まった旅館がオンボロでご飯もおいしくない。でも、こんなものかと思っていたんですね。何日かそこに泊まって、1つ勝った後だったかな。甲子園のスタンドの下に大広間があって、泊まれるようになっていたんですが、そこにいたチームが負けたんで、空いたんです。

〝引っ越し〟が大成功でね。真夏でもスタンドの下というのは涼しくて快適なんですよ。夜も寝やすいし、食堂のご飯がおいしくてね。はっきり覚えています。そこへ移ってから連戦連勝。試合が終わった後、夕飯前に外野の芝生の上へ皆で出て行って、裸足でゴロゴロ転がってリラックスして…。あれはすごく楽しい、良い思い出ですね。

優勝した次の日、夜行の急行列車に乗って帰りました。座席は木でリクライニングもなく、直角です。小田原駅で降りて、列車を乗り換えました。国府津(こうづ)駅前にある湘南高の先輩がやっている旅館で、お風呂に入り、朝ご飯を食べ、汚いユニホームに着替えて、また、列車に乗りました。私はもう疲れ果てて、お風呂も入らず、ご飯も食べませんでした。

藤沢駅に降りたら、駅前に藤沢市民が全員集まったんじゃないかと思うぐらいの人で。歓声がすごく、大感激でしたね。そこから学校までスパイクシューズで歩いたんですよ。コンクリートやアスファルト、砂利道の上を。学校に着いた時は皆、ゲンナリしてました。次の日が鎌倉市で祝勝会。トラックの荷台に乗って市内を回りました。

〝ライバル〟慎太郎

県立の進学校が日本一になったというので話題にもなりましたし、大きな自信になりましたね。やりゃあ、できるんだみたいな。猛練習なんてしていない。授業が午後4時に終わり、練習は2時間。それで、よく勝ったと思いますよ。

グラウンドはサッカー部と共用でした。片方がデコボコ、片方がきれいで…。サッカー部と取り合いで、しょっちゅうケンカしました。サッカー部だった石原慎太郎が大きな背中をこっちに向けて練習していてね。ライナーを一発、ぶつけてやろうと、流し打ちをやりました。

後年、ある雑誌の企画で慎太郎と写真を撮った時に、「実は狙ったんだけど、当たらなかった。良かったよ。後頭部にでも当たっていたら『太陽の季節』もなかっただろう」と言ったら、笑っていました。(聞き手 江目智則)

佐々木信也

ささき・しんや 昭和8年、東京府東京市生まれ。戦時中、神奈川県藤沢市に移住し、湘南高1年の24年、夏の甲子園で優勝。慶応大を卒業後、プロ野球高橋ユニオンズに入団。大映、大毎を経て解説者に転身。フジテレビ系列「プロ野球ニュース」のメインキャスターを12年間務めた。

 



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