ハンガリー動乱の衝撃
東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が1961年に構築されるまで、東西ベルリン間の行き来は比較的自由だった。ある時、共産陣営側の東ベルリンの男子高校生2人が列車で西ベルリンに行き、飛び込んだ映画館のニュース映像で「ハンガリー動乱」を知って驚愕(きょうがく)する。
56年10月23日、同国全土で始まった自由・民主化を求める国民の蜂起をソ連軍が弾圧、市民数千人が犠牲になり、20万人が国外に避難した。ナジ首相はソ連軍に連行され、処刑された。
当時の報道写真や映像を見ると、首都ブダペストの街頭でソ連の戦車が暴れ狂い、数多くのビル群は連日の銃・砲撃などで廃墟(はいきょ)と化した。今のプーチン露大統領によるウクライナ侵略の現場と見紛う惨状である。
クラスに戻った2人は犠牲者追悼の「2分間の黙禱(もくとう)」を呼びかけ、実行した。情報はたちまち校内外に広がり、やがて「国家への反逆」だとして東ドイツ政府まで介入する事態となる。当局はクラスで「首謀者探し」の苛烈な尋問責めを始め、結局2人は西側への脱出を余儀なくされる。すべて実話で後に映画化され、日本でも4年前、『僕たちは希望という名の列車に乗った』との題名で公開された。
このハンガリー動乱こそ、ソ連が第二次大戦後、東側の衛星国の民主化運動を武力で粉砕した最初の事件である。若者の純粋な黙禱が国家問題にまでなった事実は、当時のフルシチョフ・ソ連共産党第1書記のクレムリンが、動乱を共産圏全体の屋台骨を揺るがしかねない一大事件と認識していた証左だ。
ウクライナ侵略に直結
しかし元はといえば、そのフルシチョフ自身が同じ56年の2月、前任の独裁者の大粛清や個人崇拝などを糾弾した「スターリン批判」を行い、戦後、スターリンが共産化した東欧諸国の体制の箍(たが)が緩んだことがハンガリー国民の蜂起を招いた。
当時、軍事介入を逡巡(しゅんじゅん)するフルシチョフの背中を押したのがハンガリー駐在のアンドロポフ・ソ連大使とされ、現地での残忍な弾圧手法は「ブダペストの虐殺者」と西側で囁(ささや)かれた。
ハンガリー動乱は日本とソ連がモスクワで「日ソ共同宣言」に調印して国交を回復した56年10月19日の4日後に始まった。先頃、日ソ国交回復前後の産経新聞(当時の題字は「産経時事」)の論調を調べていた時、ハンガリー動乱に関する社説(今の「主張」)にも目を通して大いに刺激を受けた。
「共産主義の歴史的審判」との見出しの56年12月20日付の社説で、ロシアの2008年のジョージア侵攻と現在のウクライナ侵略を見通したかのような記述に出くわしたからだ。
「一九四〇年ソ連が最後通牒(つうちょう)を突きつけて強引に領有した沿バルト三国内にも、民族解放の動きが現われており、今後の動向如何(いかん)では、伝統的に大ロシア民族主義に反抗してきたウクライナ、ジョルジア(現ジョージア)等のソ連内民族にも、独立運動の形で波及しないとはいえない」「ハンガリーの動乱が中共(中国共産党)を含む世界の共産圏諸国に、歴史的な影響と変動をもたらしつつある事実は、否定するわけにいくまい」
「ソ連崩壊」という亡国
さらに「スターリン的共産主義は…個人的権力独裁、血の大粛清、強制労働、人権と法秩序の破棄、弱小国領土の侵略…など、非常な無理と強制と犠牲をも積み重ねて来た」「全体として審判される歴史的段階に来たと見るべきであろう」と論じた。
ハンガリー動乱後、ブレジネフ政権下の68年夏にはチェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」をソ連・ワルシャワ条約機構軍が武力弾圧した。前年に国家保安委員会(KGB)議長に就任したアンドロポフがここでも主要な役割を果たしたといわれる。弾圧を繰り返したアンドロポフは15年間もKGB議長を務めた後、最高指導者に上り詰めた。情報機関のトップだったプーチン氏と同様の経歴だ。
「スターリン的共産主義」にはハンガリー動乱から35年後の91年、「ソ連崩壊」、つまり亡国という審判が下った。ウクライナ侵略を続けるプーチン氏には国際刑事裁判所(ICC)から戦争犯罪容疑で逮捕状が出た。「恐怖政治の祖」ともいうべきスターリンとアンドロポフも経験していない国際手配だ。しかも、これはあくまで「審判第1弾」だ。帝国再興の妄執に憑(つ)かれた21世紀の暴君に対する「最終審判」は「ロシア崩壊」なる新たな亡国こそふさわしかろう。(さいとう つとむ)