《茶道裏千家は、安土桃山時代に織田信長や豊臣秀吉に重用された茶人、千利休を祖とする茶道の家元。京都に居を構える三千家の一つで、正月に京都と東京で開かれる年初の茶会「初釜式」はよく知られている》
利休居士という方はまったくもって偉大なるお人です。そして、なんでもでき、創造性と先見の明のある方でした。
《茶の湯は茶を点(た)てるだけでなく、建築や美術、華道、テキスタイル、空間演出など、さまざまな文化の総合芸術といえる。その大成者の利休は近年、文化芸術プロデューサーとしても高く評価されている》
何より、こびへつらいのない方でした。これなのです。人間というのは生きているとどうしても何か、誰かにこびへつらうものです。ところが利休居士はそれをしなかった。最後には秀吉に切腹を命じられてしまいます。徳川家康や前田利家、秀吉の軍師である黒田官兵衛など名だたる戦国武将が頭を下げてわびるように説得するのですが、断ってしまいました。私は、己の茶の哲学というものを、切腹することで秀吉に教えたのだと思うのです。これはたいへんなことです。だからこそ、後世に茶道が残ったといえましょう。
《利休の没後、徳川の世になり、赦(ゆる)されて孫の宗旦が3代を継いだ。次代、家督はその三男宗左が継ぎ(表千家)、北側の隠居屋敷を四男の宗室が継いで、以降、裏千家は代々千宗室を襲名する》
江戸時代は各家とも、茶道でもってまた武家として大名家に仕官しました。裏千家の場合は、加賀前田家や伊予久松家、尾張徳川家などです。単にお茶の指南役というだけでなく、茶道具から文化全般を取り仕切る武士としての文官で、それによって禄をいただく。千家はれっきとした武門でした。
私の母などは自身も仙台の武家の出身でしたから、「千家は明治の御一新までは武家であり、茶家でもありました。武家としての禄をいただいて藩にお仕えしていたわけですから、文武両道でなければなりません」といって、特に長男の私の教育はたいへん厳しかったものです。
《その大名家が明治維新で姿を消す。政府の欧化政策もあり、茶道はかつてない危機に直面した》
当時の当主は11代玄々斎。10代に男子がなかったため三河奥殿藩主、松平家から養子に入った人でした。この方によって維新後の混乱期を乗り越えられたのです。例えば、明治初期に京都で開かれた博覧会で、外国のお客さまをおもてなしするために、今では一般的になった椅子とテーブルによる「立礼(りゅうれい)式」を考案しました。この時期、祇園で開かれる「都をどり」も始まり、今も芸舞妓(まいこ)がお客さまに立礼でお茶を差し上げています。先見の明とはこのことでしょう。
《こうした先例にとらわれないチャレンジ精神が同家にはある。伝統と革新があってこそ歴史は積み重ねられていく》
私も若宗匠(次期家元)時代から、「茶道を世界に広めたい」と積極的に海外に出かけました。近年は新型コロナウイルス禍でなかなか、かないませんでしたが少し状況も変わりつつあります。元気なうちはまだまだ続けていきたいと願っています。
私どもの「今日庵」という庵号は「明日を期せず」という禅の教えからと伝わります。今日の出会いが尊いものであるということ。それは両親や祖母から教わりました。(聞き手 山上直子)