小林繁伝

くじを引き当てたモンチッチ…思わず「しもたぁ」 虎番疾風録其の四(193)

ドラフト会議で江川投手を引き当てた阪神の岡崎義人代表(中央)=昭和53年11月22日、東京都千代田区のホテルグランドパレス
ドラフト会議で江川投手を引き当てた阪神の岡崎義人代表(中央)=昭和53年11月22日、東京都千代田区のホテルグランドパレス

誰が運がいいのか悪いのか―。注目の抽選、南海は森本球団代表、阪神は岡崎代表、ロッテは山内監督、そして近鉄は山崎代表がクジ(封筒)を引いた。

「お開けください」の声がかかっても誰も開こうとはしない。早く誰か手を挙げてくれ…とでも言いたそうに顔を見合わせている。当たったのは阪神の岡崎代表。後年、彼はこう回想した。

「ワシの初めての抽選やったのに〝外れてくれ、当たるな〟と祈っとった。変な話や。だから当たった瞬間『しもたぁ!』と言うてしもた。南海の森本さんが隣で笑とったよ」

岡崎義人、大正15年5月28日生まれ、当時52歳。京都大学法学部卒。筆者が虎番記者となり、他社の仲間と一緒につけたニックネームが「モンチッチ」。あのお猿の人形ほど可愛くはないが、若い記者に対して常に上から目線で話す小津社長に比べ、岡崎代表は「なんか用事か?」といつも笑って受け入れてくれた。

モンチッチには「自慢話」があった。

「もし、ワシがタイガースに入団しとったら、吉田より先に〝牛若丸〟といわれとったかもしれん」

ホンマかいな―のお話である。

実は岡崎は京大で野球部に所属していた。京大が強いころの選手でなかなかの遊撃手だったという。岡崎の父親と当時、阪神電鉄の事業担当重役でタイガース担当だった野田(誠三)が親友だったらしく、大学4年生のある日、野田から父親へこんな話が舞い込んだ。

「お前とこの息子(義人)、なかなかの選手らしいやないか。タイガースに入れんか?」

当時はドラフトもない。もちろんOK。義人のタイガース入団が内定した。

「アホやった。喜んで草野球で遊びほうけとったら肩を壊してしもた。もちろん、タイガース入団はパーや。野田さんが〝電鉄にも野球部がある。そこで野球しとれ〟といってくれて、阪神電鉄に入社したんや。あのまま、タイガースに入っていたら…」

モンチッチの涙の自慢話である。

ドラフト会議終了後、岡崎代表は担当の田丸スカウトを連れて午後5時過ぎ、東京・平河町の船田事務所を訪ねた。だが、ドアは開かない。

「タイガースの岡崎です。蓮実さんはいますか」「いません」「では、タイガースが挨拶にやってきたことをお伝えください」。阪神の交渉1回目は門前払いで終わった。(敬称略)

■小林繁伝194

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