ロープに結ばれ壁に取り付いた瞬間、あらゆるものから解き放たれたかのように見えた。車いすに乗っていた人、義足を着けていた人、白杖(はくじょう)をついていた人がそれぞれ全身を精いっぱい使い、想像をはるかに上回る動きで登っていく。初めて生で観戦したパラクライミング日本選手権は、「すさまじい」の一言に尽きた。
今月上旬、広島県福山市の「エフピコアリーナふくやま」で行われた大会。壁の高さは健常者と同じ15メートルだ。2023年度の日本代表の座をかけて29人の選手が挑んだ予選から、課題の難易度は高めだった。
以前、視覚障害のある人が、目の代わりとなる「サイトガイド」の声を頼りに登る姿を取材したことはあったが、パラ大会を通しで見たことはなかった。「ぜひ、予選から見てください。いろんな選手が、すごい登りを見せてくれますよ」と、日本パラクライミング協会(JPCA)の共同代表理事、鈴木直也さん(46)に言われていたが、その通りだった。
フリークライミングの「フリー」とは「自由」の意ではない。己の力だけで自然や人工の岩壁を登ることだ。日常生活に自助具や介助が必要な人がどうやって、と思いがちだが、「とても歯が立たない」と思った課題でも、諦めずに試行錯誤を繰り返し、持てる力を出し切れば、いつかは登り切れる―。パラ大会は、そんなクライミングの真骨頂を見せつけてくれた。
パラ競技は、障害の内容と程度に応じてクラス分けされる。初の世界大会がロシアで行われたのは2006年。ただ、「当時は障害者を『見せ物』として扱うようなイベントだった」と、視覚障害男子の部に初出場で優勝した小林幸一郎さん(55)は振り返る。
だが、この経験が「きちんとした大会をやりたい」と小林さんを突き動かした。4年後には国内初の大会開催にこぎつけ、その後競技者は増加。レベルも上がった。現在、日本は世界選手権で毎回複数のメダルを獲得する強豪国だ。
昨年、初めて下肢機能障害女子の日本代表選手となった渡辺雅子さん(46)=東京都府中市=がクライミングを始めたのは4年前。小林さんが代表を務めるNPO法人「モンキーマジック」のイベントに参加したのがきっかけだったという。夢中になり、「もっと登れるようになりたい」と世界が変わった。
5歳のとき左大腿(だいたい)骨に骨肉腫が見つかった渡辺さんは人工骨頭置換手術を受けて左足を温存。つえと装具を使っていたが、3年前に離断した。現在、骨盤から下は義足だが、「左足に気を使わなくてよくなり、身体の使い方が変わった。『ここまでしかできない』と決めていたのは自分だったのかもしれない」と話す。
義足を外して登る渡辺さんは、右足を次のホールド(突起物)に移動させるとき、手だけで身体を支えてぴょんと飛ぶ。クライミングは両手足のうち3つでバランスをとる「3点支持」が基本だが、渡辺さんは足を出すたびに2点支持が必要になる。時に大きく振られる身体も見事にコントロールし、アグレッシブに登る姿は圧巻だった。
この大会で、国内のパラクライミング第一人者である小林さんは競技生活を終えた。普及活動の先頭に立ち、JPCAの共同代表理事を務める一方、競技者としてもトップを走ってきた小林さんは身長157センチと小柄ながら、世界選手権を4連覇した〝レジェンド〟だ。だが、「クライミングは生涯の友達。何も変わらないです」と、いつもの調子だった。
小林さんが決勝戦の競技を終えた後、神経系の障害で最も重いクラスの選手の競技が始まった。物もうまくつかめないという小柄な女性がじりじりと登る姿に、私は思わず息をのんだ。と、隣にいた小林さんは、ごく自然に、ひときわ大きな声援を送った。
「あすみちゃん、ガンバー!」
「見えない」という壁など、とっくに越えていた。(きむら さやか)