香川県は溜池(ためいけ)が多い。現在でも一万以上あるという。数でも密度でも他県を圧倒している。
もしも雲の上にのぼったとして、下界を見たら、さだめしきらきらと鏡を砕いたように美しいのだろうが、しかしその理由ははたして幸福なものだったか。この地はもともと仏と鬼が同居しているようなもので、稲作に最適で、しかも不適当という矛盾した性格を持ち、その矛盾の解決が住民たちの生存の条件でありつづけたのである。
最適というのは平地が広く、かつ地味が肥えているからで、不適当とは、水がないことだった。いわゆる瀬戸内海式気候に属して雨が少ない上、水量ゆたかな川がないのだ。
このため古来、この地域はたびたび干魃(かんばつ)に悩まされた。讃岐国司として赴任して来た菅原道真が雨乞いをやったという故事のあるのもこのせいだが、これがもうちょっと自然に対して積極的になると、溜池づくりの発想になる。天に祈る暇があるなら土手を盛り、ささやかな川の流れをせきとめて、少しずつ利用しよう。
人間の態度が一歩、科学的になった瞬間といえる。こうして築かれた溜池のうち最大のものが満濃池、いまも日本最大である。完成の年はさだかではないが、何しろ高僧空海が修築したというから平安初期よりも前であることは確実だろう。実際に行ってみると、なるほど古代そのままという感じの風景で、
「天然の湖ですよ」
と言われたら信じてしまいそうである。のんびりしていて、しんとしていて、さだめし昔の人々はこういうところで稲妻とともに身をくねらせて昇天する龍の姿を見たのにちがいない、などと思ったりした。
しかしながらじつを言うと、この感想は、歴史的にはそんなに正しくない。なぜならこの池は、空海による修築以後もたびたび洪水による破堤があったのである。
少雨の国で洪水というのも皮肉な話だけれども、土木技術が未熟だったのだろう。元暦(げんりゃく)元年(一一八四)、すなわちおおむね鎌倉時代以降はもはや修築もされず、何とまあ江戸時代に入るまで四百年以上も放置された。池はすっかり干上がってしまったばかりか人が住みつき、「池内村」なる集落になって、田んぼの米もつくったというから科学的には一歩後退か。
江戸時代というのは、日本全国における土木技術の急速な発達期だった。満濃池は復活し――事実上の新築だったろう――、こんどこそ丸亀平野のほぼ全域をうるおして親藩・高松藩の財政に大いに貢献したわけだが、しかしそんな歴史を知ってもなお目の前の風景がやっぱりのんびりして、しんとして、古代的で……考えてみれば雨が少なく平地が広く、かつ地味が肥えているというのは、古代メソポタミアもそうだった。
かの地もやはり「仏と鬼」の地だったのだ。そこを住みかとしたシュメール人と呼ばれる人々は、仏と鬼のどちらへも立ち向かうべく灌漑(かんがい)用のダムをつくることで大麦を育て、ありあまるほどになり、そのお釣りでもって都市を築いて人類最古の文明のひとつの担い手となったのである。
その意味では香川県というのは日本のメソポタミアといえないことはなく、もしもかの地ほどの大きな面積があったらほんとうに建国の起源になっていたかもしれない。人間を科学的にするのは楽観でも絶望でもなく、おそらくはそのまんなかで右往左往する「希望」というやつなのだ。
現在、この県には、香川用水がある。讃岐山地をトンネルでぶちぬいて隣県の吉野川から水を引きこむ現代技術のたまもので、農業だけでなく工業にも上水道にも使われるが、それでも満濃池は古代顔をして、今日もうららかに水をたたえては龍の顔をのぞかせている。