徳川家康 100の決断(7)

説得しても城の明け渡しに応じないお田鶴の方に対し、家康はどう決断した?

泰平の世を築いた徳川家康。その生涯はピンチの連続で、「どうしよう…?」と究極の選択を何度も迫られました。家康の決断を、100の問答でご紹介します。

決断15を読む

居館のある駿府を信玄に奪われた氏真が重臣の朝比奈泰朝を頼って遠江国の掛川城へ逃れると、家康はすぐさま掛川城を包囲して、氏真に降伏を迫りました。

こうして家康は、かつての主家であり、 戦国大名でもあった今川氏を滅ぼすとともに、遠江国を平定したのです。

<問い16>築山殿の従姉妹で、城主として曳馬城に立てこもるお田鶴の方に対峙した家康。 説得しても城の明け渡しに応じないお田鶴の方に対し、家康はどのように決断した?

曳馬(引間)城は、のちの浜松城です。 「馬を曳く(引く)」という名称が敗北を想起させて縁起が悪いため、 浜松城に改称したといわれます。

遠江国へ進出した家康は、今川方から離反した「井伊谷三人衆(菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時)」 を道案内として勢力を広げていきました。

その過程で起きた気賀付近の土豪や農民たちが堀川城に立てこもった一揆に対し、家康の軍勢は容赦なく蹴散らしていきます。

また、曳馬城を包囲したとき、家康は城主・お田鶴の方(妻の築山殿と従姉妹の関係)に城を明け渡すよう説得しましたが拒絶され、やむなく総攻撃をかけて落城させました。

こうした家康の破竹の勢いを見て、遠江国に領地を持つ今川方の家臣や国衆たちは続々と家康に帰順していったのです。

<決断16> やむなく城へ総攻撃
『秀雅百人一首』に描かれた今川氏真(国立国会図書館所蔵)
『秀雅百人一首』に描かれた今川氏真(国立国会図書館所蔵)

<問い17>掛川城の戦いで、籠城していた氏真から降伏を申し入れられた家康。かつての主家である氏真に対し、家康が選択した決断とは?

信玄の軍勢によって駿府を追われた氏真は、わずかな従者を連れて遠江国の掛川城へ逃れました。

このとき氏真の妻(北条氏康の娘)は乗り物を使うこともできず、徒歩での逃避行を余儀なくされたそうです。

氏真は重臣・朝比奈泰朝が守る掛川城へ逃げこみますが、ただちに城を包囲した家康の攻撃に耐えきれず、降伏を申し入れます。

開城したあと、氏真は妻の縁を頼って、海路で相模国の北条氏康のもとへと落ち延びていきました。

こうして200年以上にわたって駿河・遠江の両国に覇を唱えた戦国大名の今川氏は滅亡したのです。

家康は今川氏の遺臣たちの抵抗を抑えながら、 遠江国の経略を進めていきました。

<決断17> 縁者のもとへ逃げさせた

※産経新聞出版「家康100の決断」より


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