一聞百見

関西「知」の伝統、東京中心の知性史に抗す 宇野重規・東大教授

関西の「知」の枠にとらわれない発想を評価する宇野重規さん=東京都文京区の東京大(酒巻俊介撮影)
関西の「知」の枠にとらわれない発想を評価する宇野重規さん=東京都文京区の東京大(酒巻俊介撮影)

ここ数年で梅原猛、山崎正和、瀬戸内寂聴という関西を代表する知識人や作家が相次いで他界した。重厚な「知」が綺羅星のごとくだった関西が、東京一極集中で輝きを失いつつある。政治学者の宇野重規・東京大教授が「近代日本の『知』を考える。―西と東との往来」(ミネルヴァ書房)を著した。宇野氏に「関西の知」の意義を聞いた。


世界につながる

――高坂正堯、梅棹忠夫、司馬遼太郎ら関西との関係が深い29人を取り上げ、論じています

梅原猛=平成29年
梅原猛=平成29年

宇野 関西での研究会も多く、新幹線で行き来するうちに、東西の知の伝統について考えるようになりました。この本は出身も大学も東京である私のような人間だからしがらみなく書けた、東京中心の日本の知性史に対する小さな抵抗なのです。改めて思うのは、関西には自由な視座を持った知性がいかに多かったかということです。東京は日本の首都であるゆえに、日本という枠にとらわれがち。関西の知性は、東京や日本という枠を軽々と超えて、世界の知的なネットワークにつながってきたのです。

――一方、過去の「巨星」たちは、いまの寂しさも照らしているようです。東京集中が高まっている

宇野 東京が吸い上げるパワーはすごいですからね。日本の近代化というのは、地方から東京に人材も富も文化も吸い上げ、西洋的な知識をつけたテクノクラートが調整して国家を回すシステムを作ることであったと、大ざっぱには言えるでしょう。江戸時代に参勤交代を導入し、京や大坂から文化や経済を移動させた幕府の政策に、その源流はあります。ただ江戸時代には、藩校など豊かな知的文化が各地にありました。慶應義塾を創始した福澤諭吉が学んだのも大坂に緒方洪庵が開いた適塾でした。関西の豊かな知の背景には、長年にわたって育んだ伝統があったのです。

――一極集中は、「知」の世界でも是正されるべきなのでしょうか

宇野 日本は過去150年、東京にいろんなものを集めてきましたが、地方から吸い上げることができなくなりつつある。東京を発展させるためにも多極分散を目指していくべきでしょう。たとえばドイツで名門大学やグローバル企業はむしろ地方都市にある。知で世界とつながってきた関西は日本をリードするポテンシャルがあり、日本の発展を考えるうえでも重要な立ち位置にあります。

山歩き現実から思想編む

関西の「知」に強い関心を寄せてきた東京大の宇野重規教授。とくに惹(ひ)かれる5人はと聞くと南方熊楠、梅棹忠夫、司馬遼太郎、与謝野晶子、瀬戸内寂聴の名をあげた。それぞれについて語ってもらった。

――南方熊楠(1867~1941年)は意外な人選でした。大英博物館で独学したり、和歌山・田辺で神社合(ごう)祀(し)反対運動を行ったりと、一般的な学問の枠には全く収まらない人物ですね

 南方熊楠(南方熊楠記念館提供)
南方熊楠(南方熊楠記念館提供)

宇野 熊楠は夏目漱石、正岡子規と同じ慶応3年生まれで、同年に大学予備門に入学した。和歌山の金物商、東京の町人、松山の下級士族という異なる世界で育った3人を帝国大学の予備教育機関に集めたのはまさに近代日本のシステムです。だが熊楠はそういう枠にはまる人間ではなかった。英国に渡って大英博物館で膨大な文献を読んで学問を築き、科学誌「ネイチャー」などに多くの論文が掲載されています。世界に勇躍し、山野を歩いて育む広い視野は、私が考える関西の知にぴったり。その思想は極めて先見的でした。

――先見的というと

宇野 神社合祀は神様をも統制しようとした明治政府の中央集権的な政策ですが、神域で守られてきた木々を切って生物多様性を壊すだけではなく、地域の精神も滅ぼしてしまうと熊楠は考えた。エコロジーや文化多様性という、現代に通じる先進的な考えを持っていたのです。生前は変人扱いもされたが近年に評価が高まった。近代化に反発した、それでいて近代日本の「知」のヒーローとなった知識人が熊楠なのです。

――梅棹忠夫(1920~2010年)も、生態学、文化人類学や文明論と、分野を超えた学者でした

梅棹忠夫=昭和49年
梅棹忠夫=昭和49年

宇野 梅棹は「文明の生態史観」で、ユーラシア大陸を中心に世界史を考えています。ユーラシア大陸からみると日本は辺境であり、西洋もその反対側の辺境にある。巨大大陸帝国の力が及ばない東西の辺境で封建的制がはじまり、そこから近代国家が生まれたと考えたのです。西洋中心の歴史観から解き放たれた自由な発想がある。くしくもロシアや中国、インドといったユーラシアの大国が世界を揺らしているいま、梅棹の思想は改めて着目されるべきだと思います。

――梅棹も日本を飛び出した研究者で、フィールドワークを積極的に行った

宇野 戦後の京都大学には人文科学研究所を拠点とする、新京都学派と呼ばれるネットワークがあった。仏文学者の桑原武夫を代表格に、今西錦司や梅棹らが情報を共有しながら研究を進めたことが特徴ですが、彼らの多くは山登りの人たちでした。西田幾多郎ら戦前の京都学派が書斎派の哲学者だったのに対し、風土や気候、交通といった現実を見て思考することを実践したのです。ところで京都市に寄贈された桑原の蔵書が誤って廃棄されていたとのニュースが近年、ありました(平成29年)。地元でさえ彼らの評価があやふやになっているのかと考えさせられる、ショッキングなできごとでした。

自由は現実的、生き方通し

――司馬遼太郎(1923~1996年)は大阪府東大阪市に住み続けました

司馬遼太郎=昭和60年、東大阪市
司馬遼太郎=昭和60年、東大阪市

宇野 記念館は同市の住宅地にありますね。司馬さんは抽象的な観念に酔う陸軍を嫌い、リアリズムや合理主義を愛した。戦車ならきちんと動く戦車、戦って勝てる戦車が好きで、工場のリアリズムにつながる。大阪でも中小企業が集積する土地に長く住んだのは、彼の思想に通じるものがあったのだと思います。

――作品では武士たちを多く描きました

宇野 司馬さんは鎌倉武士の倫理観やリアリズムが日本人の精神的な背骨になっていると考えた。戦後日本の企業文化の原型も関東武士団にあったとし、作品はサラリーマンに愛読されました。関西にいながら歴史観が関東的であることが面白い。西と東をうまく融合させたところに、国民的作家になりえた理由があったのだと思います。

――与謝野晶子(1878~1942年)は堺の商家に生まれています

与謝野晶子(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
与謝野晶子(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

宇野 「君死にたまふことなかれ」の歌など情熱的なイメージが強い歌人ですが、計算が得意で経済感覚にすぐれた女性でした。13人の子供を産み、自ら金を稼いで育てた肝っ玉母さん。文学に行き詰まった鉄幹を再生させようとフランスに行かせ、自分も行ってしまう行動力がすごい。

――浪漫派ですが本人は現実主義者なのですね

宇野 パリの大通りで群衆や馬車がぶつからずに行き交う様子を見て、「自由に歩む者は聡(そう)明(めい)な律を各自に案出して歩んでいく」という一文を記しています。パリっていまも道行く人の服装はばらばらで、凱(がい)旋(せん)門の周囲は信号のないラウンドアバウト(環状交差点)に車がひしめいているのですが、秩序がないように見えて社会は崩壊もせず躍動感がある。与謝野晶子はパリの町を観察して、自由な振る舞いの中に生まれる秩序を見抜いたのです。民主主義や飛行機など最新テクノロジーにも強い興味を示したモダニストの彼女を、浪漫派の歌人という枠だけで見るのはもったいない。

――瀬戸内寂聴(1922~2021年)も、力強い女性ですね

瀬戸内寂聴=平成30年、京都市
瀬戸内寂聴=平成30年、京都市

宇野 不倫や子供を置いて家を出たことなどトラブルまみれで、子宮作家などと差別的な罵倒も受けた。自由に生きようとして、すべてを失う覚悟で行動し、責任もとった彼女の人生からは、自由を深い意味で感じます。生きていくために稼ぎ、人を傷つけた償いもしている。知識人が語る理想主義的でお題目のような自由とは違い、彼女にとって自由は現実的なことでした。寂聴さんや与謝野晶子は私たちに、近代が求めてきた自由や平等は摩擦を生むが、それでも価値があることを、生き方を通して伝えているように思います。

うの・しげき 昭和42年、東京都生まれ。東京大大学院法学政治学研究科博士課程修了。法学博士。専門は政治思想史、政治哲学。仏社会科学高等研究院、米コーネル大法科大学院、ベルリン自由大大学院でも研究。平成23年から東京大社会科学研究所教授。「トクヴィル」(講談社、サントリー学芸賞)「保守主義とは何か」(中央公論新社)「民主主義とは何か」(講談社、石橋湛山賞)など著書多数。今年1月、関西ゆかりの知識人や作家について語る「近代日本の『知』を考える。」(ミネルヴァ書房)を発行。

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