評伝

改憲論議に大きな足跡残した中山太郎氏 野党にも発言機会「中山方式」を慣例化

インタビューに答える外相時代の中山太郎氏=1990年2月
インタビューに答える外相時代の中山太郎氏=1990年2月

中山太郎元外相は国会の憲法論議にも大きな足跡を残した。野党にも発言機会を十分に与える「中山方式」と呼ばれる慣例は、憲法審査会の運営にも少なからず影響を及ぼしている。中山氏が憲法改正を志した背景の一つには日本が対応に苦慮した1990年代の湾岸危機があった。

「憲法を変えなければ世界の尊敬を集める国家になれない」。自民党憲法改正推進本部長などを歴任した船田元・元経済企画庁長官は大先輩の言葉が忘れられない。湾岸危機の際、中山氏が外相を務めた海部俊樹政権は自衛隊による多国籍軍への後方支援を可能にする法案を提出した。しかし、野党などの反発で廃案となり、日本は巨額の資金を拠出しながら、国際社会の評価を得られなかったというトラウマを抱えることになった。

その後、中山氏は憲法審の前身で、平成12年に設置された衆院憲法調査会の初代会長を務めた。「中山方式」に基づき、与党は少数政党にも均等に発言機会を与えた。護憲派の影響力が今よりも強かった時代に改憲を前に進めるための知恵だった。これが、平成19年の憲法審発足を後押ししたことは間違いない。

しかし、中山氏が政界を去ると、憲法は政局と絡めて語られるようになり、改憲論議は長期の足踏みを強いられている。「中山方式には憲法改正の議論から目を背けないという暗黙の約束があった。与野党にまじめさがないと裏目に出る」と船田氏は語る。

「ああいう風貌だから『優しいでしょう?』とよく言われたが、身内には厳しかった。別の秘書のミスで面罵されたときは『どついたろかな』と思った」。こう振り返るのは20代のほとんどを中山氏の秘書として過ごした日本維新の会の馬場伸幸代表だ。

ただ、厳しい指導の裏側で、政界入りを夢見る若者の将来を真剣に考えてもいた。「君は文化の薫りがしない。大きくなるには絶対に学問を身につけた方がええ」。中山氏は馬場氏が国会に近い私大の社会人コースで学べるよう親身に支援したという。馬場氏は23日、ツイッターで「中山先生の最後のライフワークであった憲法改正の国民投票実現に向けて全力を傾注していく」と発信した。

かつての憲法審の傍聴席には感慨深げに与野党の審議を見守る政界引退後の中山氏の姿があった。設置から16年。いまだ改憲実現の目途が立っていない現状は、天上の中山氏の目にどう映っているのだろうか。(内藤慎二)

中山太郎元外相が死去 元衆院憲法調査会長

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