光文社発行の女性週刊誌『女性自身』昭和34(1959)年5月22日号に、木下清(きのした・きよし)(1935~88年)というシャンソン歌手の記事が出ている。《「銀巴里(ぎんぱり)」のレギュラーで、テレビにも数回出ている》。木下は翌35年7月、東京・大手町の産経国際ホール(当時)でリサイタルを開く。画家で編集者の中原淳一がプログラムに寄せた一文が残っている。《(木下は)少年の頃はピアニストになることが夢であったそうで、その頃からピアノの勉強をしているし、その後、音楽学校で声楽を学んだという》
木下は、兵庫県出身の在日コリアン2世だった。本(朝鮮)名を、李大雨(リ・テウ)という。本欄の語り部の一人であった音楽プロデューサー、李喆雨(チョルウ)(84)の長兄である。
中原の文には《恵まれた環境に育った…》とあるが、実際は違う。兵庫県伊丹市の在日朝鮮人集落の貧しい家庭で育った。勉強ができ、音楽の才能に恵まれた木下のために、1世の父親は、かなり無理をしてアップライト型のピアノを買ってくれた。音楽学校にも実は通っていない。受験に失敗して上京。デビューのチャンスをつかんだ。